天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第71号

半田天台座主猊下、大正大学校名表札を揮毫

 キャンパス整備を進めている大正大学(東京都・豊島区)の巣鴨校舎では、新しく正門が設置され、昨年九月二十七日にテープカットが行われた。この正門に掲げられた『大正大学』『大正大学大学院』の校名表札は、半田孝淳天台座主猊下の揮毫になる。学生が毎日その下を通う正門と表札は、大正大学のシンボルとなりそうだ。

 大正大学では、現在「ランドスケープ計画」と名づけたキャンパス整備を進めている。単に建物を新築し、施設を整備するだけでなく、キャンパス全体の景観や環境を総合的にデザインし、より快適な空間を作り出す計画で、今回の正門設置は、その第一歩と位置づけられている。
 大正大学の前身は、明治四十一年に設立された宗教大学である。今回建設された正門は、同大学本館にあった車寄せをモチーフとしている。
 宗教大学が大正十五年に大正大学と改称された後も、本館は長く校舎として使用され、椎尾弁匡をはじめとする宗教学の碩学が子弟の教育にあたった。しかし、昭和四十三年、宗教大学本館は解体されることになった。その面影を色濃く残す車寄せは、愛知県犬山市の明治村に保存されている。新しい正門は、その創立当時のイメージを今日に伝えるものである。
 校名表札は、大正大学建学の四宗派(浄土宗・真言宗豊山派・真言宗智山派・天台宗)で組織される理事会で協議された結果、同大学の同窓生でもある半田天台座主猊下に揮毫を依頼することを満場一致で決定。大学からの申し出を快諾した半田座主猊下の書は、昨年夏に大学に届けられた。半田座主猊下は、昭和十六年大正大学宗教学科の卒業である。
 九十二歳になる天台座主が揮毫した雄渾かつ端麗な『大正大学』と『大正大学大学院』の書は、このほど銅板処理がほどこされて正門を飾った。在校生を見守り、新入生を待つ正門と校名表札は、大正大学の過去と未来を繋ぐ役割を果たしている。
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 半田孝淳天台座主の話
 私は、同窓生ということもあり、今回校名表札を揮毫させて頂くことになりました。
 他に適任の方もおられると思い、またその重責に、少し躊躇致しましたが、私は子どもの頃から朝な夕なに、自坊・常楽寺に掲げられていた「明智修徳」の大きな墨蹟を見て育ったことを思い出しました。それは東北帝国大学初代総長、京都帝国大学総長を歴任され、また大正大学の初代学長でもあった澤柳政太郎先生が揮毫された雄渾な書であります。ご縁というものを深く感じ、非常に名誉なことであるとお引き受けいたしました。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

俺は後でいいよ

小津安二郎

 小津安二郎は、黒沢明と共に昭和の日本を代表する映画監督です。
 黒沢がダイナミックなアクションを持ち味としたのに対して、小津はホームドラマを得意としました。
 戦争中に小津は、インド独立軍の英雄チャンドラ・ボースの映画を撮るためにシンガポールに行きますが、戦局が悪化し、映画どころではなくなります。といって、帰国することもできず、そのままシンガポールで終戦を迎えます。
 日本軍は全員捕虜になりましたが、小津は軍人ではありませんから、民間人の収容所に入れられて帰国の日を待つことになりました。
 ようやく、昭和二十年末に待ちに待った日本からの帰還船がやってきます。
 けれども、その帰還船は小さくて全員を乗せることが出来ないのです。しかたなく今回は何人か残らねばなりません。それでは、くじ引きで決めようということになりました。
 小津は、帰れる当たりくじを引きます。しかし「俺は後でいいよ」と言って、見ず知らずの男にくじを譲るのです。
 食糧も十分ではなく、文化も風習も季候も違う異国での捕われの身です。日本で待つ家族や友人のことも心配でしょう。誰しも、一瞬でも早く逃げ出したい、祖国に帰りたいと願っています。
 そのような状況では『己を忘れて他を利する』ことはなかなかできません。また、どんなことでも、恩着せがましくしては意味がありません。さりげなく流してこそ、余韻が残るというものでしょうか。
 「俺は後でいいよ」とは、まるでどうでもいいような言い方ですが、相手が気兼ねしないようにとの気遣いが感じられます。
 その時、小津の「誰か一緒に残ってくれる者いるかい」という言葉に応じて、助監督二人が当たりくじを放棄して共に残りました。
 翌年の二月に彼らは帰国しますが、その強い結びつきは終生変わらなかったといいます。

鬼手仏心

ガザの悲劇  天台宗出版室長  谷 晃昭

 
 イスラエルとガザ地区に勢力を持つハマスとの争いにとりあえず停戦が調ったようだ。と言っても、これまでの経過をみると、いつ何時戦火が再燃するか分からず、安閑としてはいられない。
 昨年末からはじまったイスラエルによるガザ地区への攻撃は、ここを拠点とするハマス(正式にはイスラーム抵抗運動)の勢力を一掃する目的で行われたというが、それにしてはあまりに無差別的な攻撃によって子どもや女性、老人などの無辜の市民に多くの犠牲者が出たようだ。
 テレビ画面からは、まるでイスラエルによる地域住民の殲滅作戦が始まったかのような印象さえ受けた。
 ハマスは、イスラエルとの共存も視野に入れるパレスチナ解放機構(PLO)の反イスラエル運動とは一線を画し、パレスチナからイスラエルを放逐することを目的とする、より過激な姿勢で知られる組織である。
 ハマスは、再三の停止要請にも関わらず、ガザ地区からイスラエルに向けたロケット攻撃を繰り返してきた。ヨルダン川西岸地域に依るファタハを中心とする現PLOとも対立関係にある。
 イスラエル側からすればハマスはテロ集団であり、イスラエルはその武器庫ともいえるガザへの攻撃という大義名分を掲げる。ハマスにすれば今回の度を超したイスラエルの攻撃を誘いだしたことが一つの勝利であり、これに対して徹底抗戦を謳うことで反イスラエル運動の主流を我がものにしたいのであろう。 
 双方内部の強硬派が、自らの政治的優位確保のために戦火を拡大し、その駆け引きのために多くの市民が犠牲となったとも言える。敵は争いの相手だけでなく、内部にもいるということである。
 だが、これ以上の犠牲は無意味であることを共に悟るのは何時になるのであろうか。

仏教の散歩道

世間に左右されるな!

 わが国浄土宗の元祖とされる法然上人をはじめとして、その影響を受けた念仏者たち二十数人の言行を集めた書物に『一言(いちごん)芳談(ほうだん)』があります。鎌倉時代の末ごろに編集されましたが、その編者の名は分かっていません。
 その中の一つに、行仙房(ぎょうせんぼう)という念仏者の次のような言葉があります。
 《仏道をねがふといふは、別にやうやうしき事なし。ひまある身となりて、道をさきとして、余(よ)の事に心をかけぬを第一の道とす》
 〔仏道を志すといっても、別段大袈裟なことではない。暇(ひま)のある身になって、仏道を優先し、世間のことを気にしないのが第一の道である〕
 あの『徒然草(つれづれぐさ)』の作者の吉田兼好もこの言葉に感動したのでしょう。第九十八段にこれを引用しています。
 仏道を歩むには、わたしたちはまず暇をつくることです。暇人でないと仏道の実践はできません。それじゃあ、どうしたら暇がつくれるかといえば、世間のことに関心を持たないことです。われわれはあまりにも世間のことに関心を持ちすぎていて、忙しくなり、時間の余裕を持てないでいるのです。行仙房という念仏者はそう言っています。
 ここで「仏道を歩む」ということを、われわれは「人間らしい生き方をする」に置き換えてみましょう。そうすると、この言葉は、現代の日本人に対する適切なアドバイスになっていることが分かります。
 昨今の日本人は、あまりにも世間のことに関心を持ち過ぎています。政治や経済、国際問題が盛んに論じられ、また、テレビは他人のゴシップ話を厭(あ)きもせず放映しています。そのために、どれほどの時間を無駄にしているか、考えたことはありますか…?
 しかし、そうした世間のことは、どうだっていいのです。どうだっていいというのが語弊があれば、われわれが人間らしい生き方をするには、他人のゴシップ話や世間の動向は関係ありません。わたしたちは、いつの時代にあっても、仏教の教えである、
 -少欲知足-
 を実践すればよいのです。欲望を少なくし、足(た)るを知る生活をすればいい。それが仏教の教えですから、それを信じていればいいのです。
 最近は百年に一度の不況だと言われています。不況の時代をどう生きればよいか、人々は迷っているようです。けれども、そこで迷うのはおかしいのです。迷うというのは世間に左右されているからです。仏教者であれば、仏教の教えを信じて「少欲知足」の生き方をしていれば、いかなる時代が到来しようと迷うことはありません。
 そうなんです。もともとこの世は火宅なんです。『法華経』はそう教えています。わたしたちは火宅の世の中に執着せず、仏教の「少欲知足」を信じて人間らしく生きるべきです。わたしはそう考えています。

カット・酒谷 加奈

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