天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第68号

宇佐神宮に半田座主迎え、法華八講を奉修

 十月十六日に、大分県宇佐神宮で「『法華八講』三問一答」の法要が行われた。主催は九州東教区(寺田豪明宗務所長)で、平成十年以来十年ぶりの開催。半田孝淳天台座主猊下を宇佐神宮に迎えての法要で、座主猊下は同神宮本殿において八幡大神(宇佐八幡大菩薩)神前に祭文を奉じた。同日午前中には一隅を照らす運動九州東大会が行われ、神仏習合に関する基調講演やパネルディスカッションも行われた。

 宇佐神宮は、伝教大師が入唐求法にあたり渡海の無事を祈願した神宮として知られる。
 大師は帰国の後にはその感謝をこめて法華経一千部を奉納し、法華八講を修している。
 また、八世紀の初め頃に起きた隼人との戦いで殺生の罪を悔いた八幡神が、仏教に救いを求めたために、日本で初めて神と仏が習合したところでもある。
 天台宗とは関係の深い神宮であり、明治以前には日常的に法華経が講じられていたが、廃仏毀釈により途絶えていた。昭和五十三年に復活され、今回が三回目となる。
 午前中、参集殿において一隅を照らす運動九州東大会が行われ、寺田所長の開式の辞、武覚超延暦寺執行の来賓祝辞に続いて、菅原信海京都・妙法院門跡門主が「八幡神と神仏習合」と題して基調講演を行い、その後、世界遺産登録を目指す同神宮および地域の代表によるパネルディスカッション「神仏習合と世界遺産」が行われた。
 濱中光礼天台宗宗務総長の来賓挨拶によって午前の部を終了。
 午後からは「『法華八講』三問一答」法要が同神宮本殿において厳修された。
 九州東教区の住職・檀信徒百四十名、また折から団体参拝していた天台宗神奈川教区の住職・檀信徒三百名が見守る中、半田座主猊下と到津克子同神宮権宮司を始めとする式衆が本殿に入殿。同神宮神職が祝詞を奉上したあと、半田座主猊下が祭文を奉じた。
 三問一答とは、三人の僧侶が教義の中の文言を問い、講師(こうじ)の僧侶が解答する論議法要である。今回の講師は稙田惠秀霊山寺住職がつとめた。
 今回の会行事をつとめた阿部昌宏観音院住職は「天台宗開宗千二百年慶讃大法会が結願し、これからの天台宗の方向性を考えるうえで、今回の法要はひとつの形となると思う」と語っていた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

豆の皮むいていると この小さなひとつぶに
無辺光仏の おんいのち
はいりこんでいるのが よくわかる

榎本栄一「豆」

 榎本栄一さんは、平成六年度の「仏教伝道文化賞」を受賞した仏教詩人です。いや、そういう言い方は正確ではないのかも知れません。大阪で奥様と二人で化粧品店を経営してこられた市井の人です。   
 「二坪半の店、十坪の家、四人の子どもと妻。これが私の、今日までの全部である」と書く小商いの人です。けれどもそんな暮らしに「冥恩を感ずること切である」と感謝された人でした。
無辺光仏とは、阿弥陀如来様のことです。阿弥陀如来様は、すべての世界を照らす仏様でもありますから、このようにも呼ばれるのです。
 天台宗では、人間や動物ばかりではなく、一本の木や草にもいのちがあり、仏に成れる素質(仏性)を備えていると教えています。
 もちろん一粒の豆の中にもいのちがあり、仏性があります。そのことを私たちは、ほとんど意識せずに生きています。日々の暮らしの中で、豆の皮をむきながら、この豆ひとつにも、仏様のいのち、仏様の光がはいりこんで照らしているのだなあ、と感ずる感性は素晴らしい。
 それは「朝 起きて水をつかい 夜 電灯を消して寝るまで 世の中の 無数の人のちからに 助けられている私である」(詩・冥助)という気持ちで暮らした人だから、見えてきた世界だと思います。
 ここにいる私も仏様のいのちと光をいただいている、その私が剥いている豆も仏様のいのちをもらい、光があたっているというのです。どちらのいのちも仏様に抱かれています。そう思わなくては「無辺光仏の おんいのち はいりこんでいるのが よくわかる」という境地には至らないでしょう。
 平成十年に九十四歳で亡くなった仏教詩人です。

鬼手仏心

紅葉シーズン  天台宗出版室長  谷 晃昭

 
 秋の行楽シーズンがはじまる。人々は野山に、高原に紅葉を求めて繰り出す時期となった。
 紅葉は最低気温十度以下の日が続くと色づき始めるという。また一日の寒暖の差が大きいほど良い紅葉が見られるともいう。
 カエデ、ドウダンツツジ、イチョウなどの紅葉を秋風に誘われながら愛でる楽しみは格別である。古来より、日本人の秋の楽しみ方であろう。
 このように、日本の四季の楽しみ方は、春の桜、夏の蛍、秋の紅葉狩り、冬は雪見とさまざまあるが、最近はかなり様子が変わってきたように思える。
 桜の開花時期が年々早くなり、桜吹雪の入学式が今では葉桜になったとか、クマゼミの生息地域が次第に北に移動し、アブラゼミにとって替わったとか、今までできた氷上のワカサギ釣りができなくなったとか、北国の青森県では地吹雪が起こらず、それを体験する観光ツアーが中止となったなど、さまざまな情報が各地から寄せられている。
 身近な出来事の中で、確実に温暖化の影響が顕著になってきているということなのだろうか。
 温暖化の影響については、地球の寒暖の周期の中で、今は温暖な時期であるが、いずれまた寒冷期が来る、という楽観的な意見もある。
 しかし、悲観的な見方としては、このまま温暖化の原因となる二酸化炭素ガスなどの排出が規制されなかった場合、今世紀末には生態系全体に深刻な影響を及ぼすことになるという。これにより食糧、水資源不足など私たちの生存そのものを脅かす事態になると警告がなされている。
 そんなことを気にしながら見ると、毎日、執務室から眺める坂本の紅葉も色づきが年々遅れているようにも感じる。今年の比叡山麓の紅葉はどうだろうか。

仏教の散歩道

お薬師さんの救い

 わたしの生家は薬屋でした。大阪の下町の小さな薬屋さんでした。
 だからわたしはお薬師さん(薬師如来)に親しみを感じます。
 でも、ちょっぴり疑問がありました。
 それは、お薬師さんがみんなの病気を治してしまわれると、薬屋さんが困るのではないか。ひょっとしたら、お薬師さんは薬屋にとって商売敵なのではないか、といった疑問です。
 ちょっと考えるとすぐに分かることですが、この世の中は、
 ご縁の世界
 ですね。たとえば誰かが大学に合格すると、確実に誰か一人は不合格になります。その場合、もしもほとけさまがある人を大学に合格させると、その人にとってはありがたいほとけさまですが、落ちた人にとってはありがたくはありません。そこのところをどう考えればよいかが、仏教の勉強を始めた最初からのわたしの疑問でした。
 だが、その疑問は、お薬師さんのお経である『薬師如来本願経』を読み直すことによって氷解しました。
 お経によると、薬師如来の願いは、あらゆる衆生を救うことです。あらゆる衆生のうちには、もちろん病人も含まれています。しかし、病人だけではなしに、お医者さんや薬屋さんも含まれているはずです。医師や薬剤師、看護師たちをも幸福にするのがお薬師さんの願いです。
 そうすると、どうなりますか? 医学の進歩によって、昔は不治の病とされたものが、だいぶ治るようになりました。現在は不治の病であるものも、医学の進歩によって将来は治るようになるかもしれません。
 ところで、医学の進歩のためには、大勢の医師や薬剤師、研究者が必要です。そして、大勢の医師・薬剤師が生計を営むためには、病人・患者が必要になります。
 つまり、医学の進歩のためには、病人が必要になるのです。
 そうだとすると、薬師如来は、病気を治すことによって病人を救うだけでは、医学の進歩を妨げることになります。そこで、ある人々には、医学の進歩のために、あなたは病気になってほしいと頼むこともされると思われます。病人がいないと、医師や薬剤師が生活できませんから、医学の進歩もとまってしまうからです。
 そこで薬師如来は、病人になってほしいと頼んだ人々に、必ずや病気に耐えて生きることのできる力を授けてくださいます。病気であるにもかかわらず、明るくほがらかに、幸せに生きる力を与えてくださるのです。わたしは、それがお薬師さんの救いだと思うのです。
 で、あなたはどちらですか?お薬師さんによって直接病気を治してもらった人ですか? それとも、病気であっても明るく幸せに生きる力を与えてもらった人ですか?

カット・酒谷 加奈

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