天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第62号

聖地天台山に結願を奉告へ

 五カ年にわたった天台宗開宗千二百年慶讃大法会が、三月末をもって無事円成し、総結願法要が営まれたことを受け、半田孝淳天台座主猊下を名誉団長とする「結願奉告訪中団」が組織された。訪中団は、二十二日に半田座主猊下を大導師として、天台山国清寺において日中合同法要を営み、天台宗開宗千二百年慶讃大法会の結願を奉告する。

 訪中団の総団長は、濱中光礼天台宗宗務総長が、また総副団長は、清原惠光延暦寺執行が、そして事務局長は、谷晃昭天台宗総務部長が務める。
 半田座主猊下と両内局代表団は一般団に先がけて、五月十九日に北京入りし、趙樸初前中国仏教会会長の墓参を行う予定である。
 また翌二十日には、中国国家宗教局、中国仏教協会、日中友好協会をそれぞれ表敬訪問する予定となっている。
 そして、二十一日には、関西空港、成田空港から出発する訪中団と天台山で合流し、結団式が行われる。
 座主猊下を名誉団長とする訪中団は、平成十六年「伝教大師入唐千二百年記念」訪中団以来。
 中国天台山は、天台大師が修行された山である。その最高峰である華頂峰で一人瞑想修行され、襲い来る様々な魔(煩悩)を下し、悟りに至った地でもある(華頂降魔)。
 その後、遣唐使と共に中国に渡った伝教大師が八〇四年に天台山に入り、道邃、行満和尚より天台学を学び、菩薩戒を受けた地である。
 中国より帰国した伝教大師は桓武天皇に帰朝報告を行い、延暦二十五(八〇六)年には天台宗が公認されたのである。いわば、中国天台山は日本天台宗の聖地であり、ルーツであるといえる。
 今回の訪中団は、天台山の真覚寺にも参拝する。真覚寺は天台大師の御廟である。大師は生前の御遺言により、ここで即身仏となり葬祀されている。現在も、二重の大白石塔が本殿内にあり、塔下に大師は眠られている。
 また、今回参拝予定の臨海の龍興寺は、伝教大師が五カ月に亘って滞在され、勉学に励まれた所である。これまで、荒廃していたが、中国臨海市民の手によって平成十一年に見事に復興された。同年の訪中団によって、当時の渡邊座主猊下揮毫による「傳教大師最澄受戒霊跡」の石碑が建立されている。
 更に、慈覚大師受法の地である西安では、青龍寺、また大興善寺にも参拝の予定である。
 なお、今回の訪中では、半田座主猊下揮毫による記念碑が天台山に建立される。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

メシある?

家族間メール

 携帯電話は、老若男女になくてはならないものです。インターネットと電子メールは、日本社会に革命的な変動をもたらしました。それとカタカナ言葉の氾濫と。
 「携帯電話は、今や電話というより、メールによるコミュニケーションのツールとして必須アイテムです」。どうして、そういう書き方をするのか、「メールを使う道具として必要不可欠なものです」となぜ書けないかと思いますが、日本語が解体されて、新陳代謝の時期を迎えている現実は無視できません。
 これまで、手紙など書いたこともなかった人々が、メールには怒濤のように参入しました。面倒な決まり事や、自筆の煩わしさという制約が取り払われたからでしょう。しきたりや決まり事が日本文化じゃないかとつぶやいてみても、衆寡は敵せず。
 あけおめ、KY、33414 105216(さみしいよ どこにいる)といったボーダレスの日本語?が画面に飛び交います。
 要点のみといっても、かつては「一筆啓上 火の用心 おせん泣かすな 馬肥やせ」というもので、最短でも一応の手順は踏んでいます。「メシある?」は、まさに実用一点張り。母親か妻に対するメールでしょうが、返事は、どういうものかなぁと思います。「メシある?」「ある」、「メシある?」「ない」ということかな。返事をもらった方の、次の行動も目に浮かぶようで可笑しい。
 日本は、言霊(ことだま)の国でした。言葉には霊が宿ると信じられていたのです。だから不吉なことを口に出して言ってはいけないという文化がありましたし、忌み言葉というものもあった。今は、ウソもマコトも定かでない言葉たちが、電波に乗って、ネットや携帯の画面に登場しています。
 「文章は、新しい所から腐る」と教えられました。チョベリグ(チョー、ベリーグッド)など、誰ももう恥ずかしくて使えないでしょう。逆に、古いものは、新しい。何百年という時を越えて、腐らないものだけが、新しいのだと思います。

鬼手仏心

全国一斉学力テスト   天台宗出版室長  谷 晃昭

 
 四月二十二日に第二回全国一斉学力テストが小学六年生、中学三年生を対象に実施された。その内容は新聞紙上でも発表されているが、国語と算数・数学の二教科での調査となっている。
 この学力テストは一九五〇年代以降「全国学力調査」としてしばらく実施された。小生も受けた記憶があるが、学校間の序列化や国による教育統制などに対する反対やらで取り止めとなっていた。
 その後、新指導要領による「ゆとり教育」が実施されたが、二〇〇三年に経済開発協力機構が行った国際学習到達度調査によって、我が国の学力の低下が明らかになった事から昨年より、このテストが再開されたと言う。
 手習いの基本は昔から「読み・書き・算盤」と言われた。
些か古くさい言い方ではあるが、この三つは今でも勉強の基本である。この三つをしっかりと習うことでその上の積み上げができるのであり、ここのところで手抜きをしてはならない。
 丸暗記や詰め込み教育の、代わりに自分で考えるとか、体験から学ぶなどが重視されたのが、いわゆる「ゆとり教育」の発想であろうが、土台があやふやなままでは、成果は得られようもなく、逆に解らない上に次々と新しい課題を押しつけられた子供たちはやがて意欲を失ってしまい、落ちこぼれ(嫌な言葉だが)てしまうことになる。
 仕事でインドを訪問することがある。就学支援先の小学校を訪問すると、大きな声を揃えて何か唱えているので、通訳に尋ねると「九九」を暗記しているという。しかも、その九九は日本とは違って二桁の九九だというのである。毎朝起きると、ラジオ体操をするように、これを唱えるのだと言う。ああ、この基礎があってのインドの発展かとうなずく。何事も基本を疎かにして事の叶う道理はない。 

仏教の散歩道

お不動さんの叱声

 お不動さんは、正しくは不動明王といいます。インドの呼び名はチャンダマハーローシャナ〈恐ろしき大忿怒尊(だいふんぬそん)〉。忿怒というのは憤怒とも表記され、憤(いきどお)り怒ることです。まことにおっかない存在です。
 なぜ、お不動さんはおっかないのか。
 そうですね、仏はわたしたち衆生を救ってやろうとしておられます。じゃあ、人々を救うためにはどうすればいいのか。それには、まず人々に仏教の教えを説いて聞かせます。たとえば「少欲知足」といった教えですね。あなたがたの欲望を少なくしなさい、そして足るを知る心を持ちなさい。そのような教えをいろんな菩薩(ぼさつ)─観音菩薩や地蔵菩薩、文殊菩薩など─を通じて教えられます。菩薩はわたしたちにやさしく教えを説いてくださいます。
 ところで、そのような菩薩の教えを、いっこうに聞かない人がいます。わたしは、いまの日本人がそうではないかと思います。「少欲知足」といった仏教の教えに耳を閉ざして、欲望を募らせてばかりいます。そのような人間は自分が悪いのだから、本当は見捨ててしまっていいのです。いわゆる自業自得ですね。
 でも、仏の慈悲は、そのような人々をも救ってやりたいと思っておられる。それにはどうすればよいでしょうか?
 菩薩のように、やさしく教えを説いていたのでは駄目なんです。「こらっ!何をしているか?!」と人々を叱って、場合によっては剣でもって脅して、人々に仏教の教えを実践させる存在が必要になります。それが明王と呼ばれる存在で、お不動さん(不動明王)はその代表者です。
 だから、お不動さんは人々を畏怖させる存在です。
      *
 さて、昨今の日本人は、この「畏怖」といったことを忘れてしまったのではないでしょうか。「こらっ!」と、わたしたちを叱ってくれるお不動さんがいなくなったように思われます。
 わたしたちはこんな贅沢な暮らしをしているのに、まだまだ贅沢を望んでいます。ちょっと景気が悪くなると、「困った、困った」と不満の声を発します。世界一の長寿国にもかかわらず、もっと長生きしたいと欲を募らせています。欲望だらけの日本人。仏教の「少欲知足」の教えに、誰も耳を傾けません。
 悲しいことに、お不動さんがいなくなったのではないでしょうか。いや、そうではありません。お不動さんはあの怖い顔でわたしたちを叱ってくださっている。しかし、そのお不動さんのお叱りの言葉を、わたしたちが聞こうとしなくなったのです。
たぶん、それだけ日本人が傲慢になったのだと思います。傲慢になったがゆえに、わたしたちにお不動さんの声が聞こえなくなったのです。罪はお不動さんにあるのではなく、わたしたち人間にあるのです。

カット・酒谷 加奈

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