天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第60号

禅定林大本堂落慶一周年法要厳修
2/8禅定林・インド(ポー二市 ルヤード村)

 インド・禅定林(サンガラトナ・法天・マナケ住職)の大本堂落慶式が奉修されてから一周年となる本年二月八日、「禅定林大本堂落慶一周年法要」が厳かに執り行われた。
 日本からは、天台座主名代の叡南覺範毘沙門堂門跡門主はじめ、谷晃昭天台宗総務部長、秋吉文隆一隅を照らす運動総本部長、小林祖承延暦寺総務部長ら五十名が参列し、落慶一周年を祝った。

 禅定林大本堂は、インド中心に位置するナグプールから車で二時間程のところのポーニ市ルヤード村に建てられている。
 大本堂建立は天台宗開宗千二百年慶讃大法会の記念事業でもあり、サンガ住職を中心にパンニャ・メッタ協会日本委員会(P・M・J)の協力のもと建設が進められ、一昨年に地鎮祭、昨年、落慶式典を迎えている。着工後の雨季の洪水による工事中止や、作業中断を余儀なくされる問題が起きるなど、工事が進まない時もあり、日本的な見方からすると、大本堂の工事はまだ完全に竣工したといえる状態とはなっていない。しかしサンガ住職を先頭に地元や日本の関係者の協力により、仏教の一大道場としての偉容は着々と整いつつある。
 落慶一周年法要は、二月八日十二時四十五分より大本堂において叡南門主を大導師とし、日本よりの随喜参列者一行とともに、インド各地より参集した仏教徒十五万人が見守るなか奉修された。落慶法要より一年が経過し、今後は布教の面での充実を図っていかなければならないわけであるが、その中心となるサンガ住職は「本日は多くの信者の方々にお集まりいただき、有り難く思っております。インド特有の事情で大本堂の建設が遅れておりますが、一日も早く完成させ、仏教の聖地インドで大乗仏教を弘め、菩薩行を行っていく中心道場となるように、更に研鑽を積んでいきたい」と、一年を迎えての決意を明らかにした。 

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 明日出る月は、
 今夜の月ではありません。
 今夜の月は、
 今日しかみられないのです

早川一光 「大養生の作法」角川ワンテーマ21

 早川さんは、ボケ老人問題を提起し「自分の体は自分で守る『自立・自主』」「自分たちのくらしは、自分たちで守る『自衛・共生』」を理念として活動されている京都の医師です。
 病院に来る人を待っているのではなく、来ることのできない人々を往診することこそ医者の使命と思っておられて、自ら「わらじ医者」と名のっておられます。
 早川さんは、いわゆる「ボケやすい人」として自己中心の人、頑なな人をあげています。それは心が筋張っていて、人のことを考えないからだと指摘されています。また人間の肉体が衰えてくると、心も柔軟性を失って固くなってくるからだともいわれます。
 逆に「ボケにくい人」というのは、感謝の心を持った人だというのです。人から何かをしてもらった時に「ありがとう」「お陰様で」といえるのは、長い年月を自分ひとりではなく、多くの人々に助けられて生きてきたという実感があっての言葉です。「お陰」というものは目には見えません。陰に隠れて見えないものに守られて生かされているということを信ずる心は柔軟です。早川さんは「目に見えず、陰に隠れたものがわかるのは人間だけなんです」と言われています。
 もうひとつ大事なことは「いつまでも、感動を覚える瑞々しい心」だといわれます。
 毎日、月を見ていても「明日も、月は出るわいな」ではいけないのです。一期一会というのは何も人間同士の出逢いばかりではない。今日の月との出逢いだって一期一会です。自分がこの世に生まれてきて、今日の月に会うのです。その喜びを感じる心、生きていてよかったと感じる心が老化を防ぐのだといわれます。

鬼手仏心

農薬混入と食の安全  天台宗出版室長  谷 晃昭

 
 食料自給率三十九パーセント、あとの六十一パーセントを輸入食品に頼りきっている中で起きた今回の農薬混入食品問題は、日本中を大きく揺るがせた。
 食べものは、好き嫌いなく何でも頂く事を信条とする小生も、今回は、些(いささ)か恐怖を覚えた。
どこで、どのように混入したのか。また、これが過失であるのか、故意に為された事なのか。真相を解明し、大衆の不安を取り除く事は当然である。
 国の威信とか、経済にあたえる影響とかよりも、「真相解明と不安除去」こそ優先して取り組まなくてはならないことは、言を俟(ま)たない。
 もし故意に為されたとすれば、新しい形でのテロ行為とも言える事態である。
 九・一一同時多発テロでは、それまで想定していなかった乗っ取り民間機を凶器にあの惨事が引き起こされた。今後は食品を凶器にしたテロが起こることも想定される。 このような事態が予想されるにつけても、検疫、検査の態勢のあまりの脆弱(ぜいじゃく)さに驚き、これで国民の健康と安全を守る国の義務が果たせるのかと心許なく感じたところである。
 今や、世界が一つの市場となり、北欧で捕れた鯖が、中国で加工され、日本の居酒屋で酔客に供される時代である。確かにコスト軽減や効率性からはやむを得ないのであろうが、それとも知らず、近海物と思いこんで食べていたのか、とほぞを噛んだ人も小生のみではあるまい。
 食料自給率三十九パーセントの現実も、国民の食料確保を安全保障の一環と考えるとすれば、大いに心配なことである。毎日あれこれ珍しい山海の珍味を食べたいとは思わない。とにかく、小生としては、季節の物をその季節に、そして何より安心して食することの方がはるかに良い。

仏教の散歩道

ほとけさまが決められる

 だいぶ昔の話ですが、ある私立幼稚園で定員を上回る入園希望者がありました。そこでその園では、抽籤によって入園者を決めることにしました。
 商店街で歳末大売り出しのときに使う道具を持って来て、白玉が合格、赤玉が不合格になるのです(反対だったかもしれません)。
 有名幼稚園ではテストなんていうこともあったようですが、幼稚園生にテストは気の毒です。抽籤のほうがよいと思います。
 それでも、ちょっと困ったことが起きました。
 ある高僧のお孫さんです。そのお孫さんは合格だったのですが、彼女の仲良しの子が不合格でした。だから、「わたしはあんな幼稚園には行かない」と言い出したのです。
 やさしいお嬢ちゃんです。
 わたしは高僧に尋ねました。
 「で、どうなりました…?」
 「なに、子どもですから、そのうちに忘れてしまいました」
 それはそうですよね。幼稚園に行く子が、人生の一大決心をするわけがありません。ほんの一時の心境ですね。
 でも、わたしは考えさせられました。ほんの一時期であれ、子どもの心を傷つけるのはかわいそうではないか。子どもの心を傷つけないためにはどうすればよいだろうか、と。
 テストによる競争はたしかに残酷です。けれども、抽籤による選別だって、残酷でないわけではありません。落ちた人間は傷つきます。
 だとすると、わたしたちは「選別する」といった考え方を変えたほうがよさそうです。
 それは大学の入学試験だって同じです。幼稚園や大学が選別して、入園者・入学者を決めると考えるのではなく、ほとけさまがそれぞれの人の進路を決めてくださるのだ、と考えてみてはどうでしょうか。
 実際問題として、自分の志望する大学に入学できたとして、それでその人が幸せになれるかどうかは分かりません。現役で一流大学に合格したのはいいのですが、クラスメートに相性の悪い者がいて、その人にいじめられて自殺した大学生だっています。
 一年浪人ののち入学して、すばらしい恋人が見つかるかもしれません。そうすると、大学の入学試験を受けるのも、たんに実力判定ではなしに、ことしこの大学に入学したほうがいいか、それともことしは見送りにしたほうがいいか、ほとけさまに決めていただくと考えるべきです。
 わたしはそう考えたほうがよいと思います。
 そうすると、幼稚園の抽籤の前に、親が子どもにこう説明してあげたほうがよいでしょう。
 「あなたがどの幼稚園に行けばよいのか、ほとけさまが決めてくださるのだよ。そして仲良しのヒロコちゃん、どの幼稚園に行くか、それもほとけさまが決められるのだよ」
 それが仏教者の考え方ではないでしょうか……。

カット・酒谷 加奈

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