天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第59号

沖縄の地で初めての特別授戒会

 来る二月二十四日、沖縄県うるま市の地蔵院(金城永眞住職)において特別授戒会が行われる。天台宗では開宗千二百年慶讃大法会事業の一環として、各教区において特別授戒会を奉修してきたが、沖縄の地で行われるのは初めてのことである。会場となる地蔵院は昨年、一宗と包括関係を結び、正式に天台宗寺院となった。今回の特別授戒会奉修は「天台の教え」が着実に根を下ろしつつある証とも言えよう。

 沖縄の地では元来、「仏教」自体が影の薄い存在であった。
 沖縄は徳川時代初期に琉球王国が薩摩・島津藩に征服され、島津藩の宗教政策の結果、僧侶の布教も禁じられ、檀家や信徒も形成されなかった。また、もともと祖先崇拝の信仰が厚く、独特の宗教儀礼を尊び、本土とはかなり異質な風土を持つ地である。
 もちろん天台の教義も、当然のことながら根付くこともなかった。大正時代に一人、修験系の僧侶がいたことが記録に残っているが、比叡山で修行を積んだ僧ではなく、後には他宗に転派している。このため、地蔵院が沖縄における初めての天台宗寺院であり、金城師が初めての正統な天台僧といえる。
 天台宗では、開宗千二百年慶讃大法会事業の一つとして、天台宗の寺院が少ない地域である広島県・鹿児島県・沖縄県への「三県特別布教」を実施している。沖縄県では昨年七月に「天台の教え」の紹介をテーマに特別講演会を開催し、好評を得ている。
 今回の授戒会の伝戒和上は森川宏映探題大僧正で、一宗から濱中光礼天台宗宗務総長、本山から金城師の師匠である中山玄晋大僧正、隣接の九州東西教区の役職者など、多数が出仕する。受戒者は六十名を超える模様。
 会場となる地蔵院の金城住職は「昨年夏に特別講演会を開催していただきましたが、非常に盛況でした。それを見て、どうしても次は授戒会を行いたいと、思っておりました。この三月で開宗千二百年慶讃大法会も円成を迎えることでもあり、今回の授戒会は良い機会でした。人は皆、仏であり、その心の内なる仏に気づいていただきたいと思っております。授戒はそのきっかけであり、ご縁を結んでいただく機会です。私にとっても仏のみ教えをさらに弘めていく機会ともなり、今後ますます布教に努力したいと思っております」と、授戒会を迎える心境を語っている。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 とにかく、やってみなはれ。
 やる前から諦める奴は
 一番つまらん人間だ。

西堀榮三郎

 昭和三十二年一月二十九日に、初めて日本観測隊が南極に上陸を果たしました。日章旗があがった昭和基地で、越冬隊長を務めたのが西堀榮三郎さんでした。五十三歳でした。
 南極は、当時未知の白い大陸で、日本は経験も資材も不足しており、政府は「いきなり越冬は無理」との見解でしたが「南極へ行く意義は越冬にある」と主張したのが、西堀さんでした。
 三日三晩吹き荒れた風速五十メートルのブリザードで、観測小屋を吹き飛ばされ、氷が割れて食料の三分の二を失った時も、西堀さんはアザラシを撃って食料を確保し、科学観測を断行しました。
 観測用の小屋が火事で焼失したときも「火事ぐらいでくじけるな。失敗したら、またやりなおせばいい」と隊員を励ましました。
 煙草の空き缶で、雪の結晶を観測する器具を作った西堀さんに、隊員達は「そんなもので、観測ができますか」と尋ねます。
 「やる前から駄目だと諦める奴は、一番つまらん人間だ。自分を蔑むな、落ちこぼれほど強いんだ。まず、やってみなはれ」。
 その言葉に発奮した隊員達の観測結果は、世界を驚かせるもので、日本人の底力を示したのです。
 西堀さんは「人間も含め、森羅万象みな大自然や。それを知るのが科学で、知りすぎることはない。そこで得た知識をどう使うかが技術で、技術者には人倫がなければあかん」とも言っています。人倫とは人として正しい道のことです。
 お釈迦さまは「好ましい言葉のみを語れ。その言葉は人々に歓び迎えられる」(ウダーナヴァルガ)と教えられています。
 

鬼手仏心

黒石寺の「蘇民祭」  天台宗出版室長  谷 晃昭

 
 岩手県奥州市(旧水沢市)水沢に妙見山黒石寺という名刹がある。天平元(西暦七二九)年、行基菩薩の開基と伝えられる寺である。
 その後、慈覚大師の奥州巡錫の縁によって現在は天台宗陸奥教区の寺院である。
 この寺に千年余りの歴史をもつ「蘇民祭」という有名なお祭りがある。
 蘇民祭は全国各地でも行われているが、ここのお祭りは国指定の無形民族文化財の指定をうけているほど格別である。
 毎年、旧歴正月七日(本年は二月十三日)の夜を徹して、古式通り実施される。
 午後十時、厳寒の中に集まった善男善女は山内川で水垢離をした後、本堂・妙見堂を三巡して祭りは始まるが、中でも圧巻なのは翌早朝五時ごろから行われる「蘇民袋の争奪戦」である。
 下帯一本の裸の男たちが蘇民札の入った袋を奪い合うのであるが、極寒の境内に男たちの体から発生する熱気が湯気となってもうもうと立ち込める。
 日本三大奇祭の一つとも言われるだけの迫力であり、この祭りに込める北国の人々の五穀豊穣と子孫繁栄の思いの強さが伝わってくる。
 この祭りの広告写真の掲載でひと悶着あった。
 写真に写っている男性モデルの裸と髭が不快感を催すので、JR東日本が広告掲載を断ったというのである。小生が見た限りでは、それほど不快なものとは思えなかった。このように同じ事柄でも主観の違いで全く見方の異なることは大いにあり得る。
 大好物を美味しそうに食べている隣で「私はこれ大嫌い」などと心中、思っている人もあろう。
 なにはともあれこの騒動で当の「蘇民祭」が注目されたことは間違いなく、思わぬかたちで宣伝になったことは疑いない。

仏教の散歩道

『法華経』の教え

 仏教経典の王といわれる『法華経』の原題は、サンスクリット語で、
 -サッダルマ・プンダリーカ・スートラ-
 といいます。サッダルマは「正しい教え」であり、プンダリーカは「白い蓮華(れんげ)」。そしてスートラは「経典」です。ですから、『法華経』は、「白い蓮華のような正しい教えを説いた経典」なのです。
 ここのところに深い意味があります。
 ご存じのように、蓮華、すなわち蓮(はす)の花は泥から咲き出ます。泥の中から出て、空中に花を咲かせるのであって、決して泥の中に咲くのではありません。
 では、泥とは何でしょうか? それは、われわれが住んでいるこの現実世界です。『法華経』はそれを三界と呼び、そしてその三界は火宅だと言っています。
 火宅というのは火事で燃えている家です。住んでいる家がぼうぼうと火事で燃えているのに、わたしたちはそれに気づかず平気で遊んでいます。
 『法華経』はそのような譬(たと)え話で説明しています。
 そう言われると、その通りです。われわれの住んでいるこの日本という国は、昨今はひどい競争社会になっています。
 競争社会においては、人は競争に勝つためには何だってやります。他人を騙すことだって、〈勝つためには仕方がないじゃないか〉と言い逃れをして、決して悪いことだと思いません。
 商品の偽装表示が問題にされていますが、競争原理を是認するかぎり、あれはなくならないでしょう。競争に勝つためには、悪いか・悪くないかは問題にならず、ばれるか・ばれないかだけが問題なのです。
 だから、日本は火宅です。いえ、火宅というより、地獄といったほうがより適切でしょう。
 それゆえ、わたしたちは火宅・地獄から脱出せねばなりません。『法華経』は、この火宅から外に逃げ出なさいと教えています。地獄に執着していてはいけないのです。
 それが蓮の花の譬喩(ひゆ)です。泥から外に出て花を咲かせるのです。
 具体的にいえば、競争社会という地獄の中で、競争の勝者になろうと激しい闘争心を燃やしてはいけない。世間の人は、闘争心を燃やすことがガッツがあると言って褒めますが、それは泥の中に潜り込んで、その中で花を咲かせようとしていることです。それだと、わたしたちは窒息してしまいます。
 しかし、これは努力するな! と言っているのではありません。また、勝ち組になってはいけないと言うのでもありません。
 わたしたちがゆったりと精進して、毎日を楽しみながら生きて、それで勝ち組になれるのなら、それでもいいのです。だが、なにがなんでも勝ち組になろうと闘争心を燃やすことがよくないのです。
 仏教は、そのようなゆったりとした精進が大事だよ、と教えています。

カット・酒谷 加奈

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