天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第47号

第256世天台座主に半田孝淳猊下ご上任

 第二百五十五世天台座主探題大僧正渡邊惠進(わたなべ・えしん)猊下(九六)の、ご譲職(辞任)が一月十日発表された。これにより次座探題大僧正半田孝淳(はんだ・こうじゅん)猊下(八九)が、宗憲第十二条、および宗制第四条、天台座主規程によって第二百五十六世天台座主にご上任(就任)されることになった。上任は二月一日。渡邊座主猊下には前天台座主として遇されることになった。

 渡邊惠進座主猊下は、一時体調を崩されていたが、その後順調に回復されており、関係者も安堵していた。しかし、その後昨年末になり、時にご体調がすぐれないことやご高齢などの理由に併せ、今年予定される諸行事、特に秋の広学竪義法華大会などを考慮されご譲職の強い意志を天台宗・延暦寺両内局に伝えられた。
 このため、天台座主規程により、次座探題である半田孝淳大僧正が第二百五十六世天台座主にご上任されることとなった。
 渡邊座主猊下は、平成九年一月二十日、梅山圓了座主猊下ご遷化のあとを受けてご上任され、十年にわたり天台座主の重責を果たしてこられた。この間、比叡山宗教サミット十周年世界宗教者平和の祈りの集いや天台宗開宗千二百年慶讃大法会などの諸行事では、常に第一線に立たれ、天台宗のみならず、日本宗教界の代表というべき立場で衆生教化に尽力された。今後は前座主として、新しい半田座主を法儀や伝燈継承などの面で補弼し、「今後とも天台宗、総本山延暦寺のために力を尽くしたい」と述べられた。
 第二百五十六世天台座主にご上任になった半田孝淳猊下は、天台宗の教学部長、宗機顧問会会長など歴任され、京都五箇室門跡のひとつ曼殊院門跡門主と信州上田の名刹・常楽寺の住職を務められた。
 天台宗きっての国際派として知られ、二十年前に比叡山宗教サミット開催依頼のために、海外使節団として渡欧。ヴァチカンのサンピエトロ広場でローマ教皇に謁見し、当時の山田惠諦座主猊下からの親書を手渡したあと、英国に渡り、カンタベリー大主教はじめ世界の代表的宗教指導者と相次いで会談、比叡山宗教サミットの実現に尽力された。特に、比叡山宗教サミットに合わせて「平和の鐘」を打ち鳴らすことを、世界の主要な寺院に要請するなど「国際派」としての実力を発揮された。
 故ローマ教皇ヨハネ・パウロ世聖下とは昵懇の間柄で、世界平和に熱い情熱を燃やす座主猊下のひとりである。
 また、長野県から、天台座主が就任するのは、明治以降初めて。その温厚篤実なご人徳と新しい感覚には、大いに期待が寄せられている。

 傳燈相承式は四月二十六日

 二月一日、滋賀院門跡で半田新座主猊下の上任式が行われ、その後、半田座主は伝教大師祖廟である浄土院へ上任のご報告をなされる。
 来る三月二日に、比叡山全山を巡拝し、諸仏諸菩薩諸天善神に座主上任を報告するご拝堂式が、また傳燈相承式は、四月二十六日に、比叡山延暦寺総本堂根本中堂ご宝前において、平安の昔そのままに古式ゆかしく執り行われる。
 傳燈相承式では、半田座主は諸仏諸天が見守られる中、歴代天台座主の血脈譜に、第二百五十六世座主上任の署名をされる。

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 渡邊第二百五十五世座主
明治四十三年(一九一一)、岐阜県生まれ。叡山学院長、滋賀院門跡門主など歴任。平成九年一月、梅山圓了座主のご遷化により第二百五十五世天台座主に就任。天台宗の戒律研究で知られる。

 半田第二百五十六世座主
大正六年(一九一七)、長野県県上田市生まれ。大正大学文学部宗教学科卒。宗議会議員、天台宗参務教学部長、天台宗国際平和宗教協力協会顧問、天台宗宗機顧問、一隅を照らす運動顧問など歴任。平成十一年探題に補任。平成十六年から曼殊院門跡門主。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

むかし私には 千手観音のように 手が何本もあった
然しそれは 自分をかばう手であった
まだその手が 二本残っている

榎本栄一/「手」より

 千手観音さまは、「千手千眼観世音菩薩」といいます。千の眼で、私たちの苦しみを見る慈悲心の広大さと、千の手で救うという手段の豊富さを持つ仏さまです。
 もちろん、私たちに手は千本もありません。しかし、たとえば仕事があるなら、一本。少し余ったお金があるなら、一本。人に出会ったら、ニッコリ挨拶して一本というように数えれば、自分以外の人々を幸せにするための「手」をいくつも持っているのです。
 仏さまのように、その手で苦しんでいる人を救うのなら素晴らしいのですが、私たちは、いつも自分を守り、身を庇うために、それらの手を使ってしまいます。仏さまの教えに触れ、救っていただけることが分れば、自己繁栄と自己防衛の手は、次第に皆の幸せを祈る手に変ります。それでも、やはり自分を守るために行きつ戻りつする弱い私。その弱い私こそを、仏さまの手は、救って下さるのです。
 ちなみに、仏さまの手を数えるときは本ではなく臂(ひ)といいます。

鬼手仏心

「鬼」あれこれ  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 本欄の名は『鬼手仏心』。辞書によると、外科医は惨酷に見えるほど大胆にメスを入れるが、その心は患者を治したい一心という意味である。
 しかし、一般に「鬼」といえば角がある赤鬼、青鬼が思い浮かぶ。今月三日の節分会では、敵役を務め、最後は豆を投げられて追い立てられ退散させられる。鬼とは病気や災厄の象徴であり、これらを退治して、福を招き春を招くのが節分である。
 さて、仏教で鬼と言えば、先ず地獄の獄卒として登場する。閻魔王の侍者として、娑婆での悪行の報いを受ける亡者を追い立てる役である。また、六道界の中には、餓鬼界と言う世界がある。
 餓鬼は飢えの究極を表す姿で、手足はやせ細り、腹が異常に膨れた姿である。悲劇的なのは、飢えのため鬼になっているのに、目の前に食べ物、飲み物が現れることである。思わず餓鬼がそれを手にすると途端に火となって燃え上がり食べることができない。一層激しい飢餓感に襲われるという真に苦しい世界である。
 現代の消費経済の中で宣伝に煽られあれも欲しいこれも欲しいと思い悩み、挙げ句の果てに借金地獄にはまって家庭も、社会生活も失ったなどと聞くと、ああこれが餓鬼の現代版かと思う。
 中国では鬼は死霊のことで、亡くなったことを「鬼籍に入る」というのはこの意味からである。日本の鬼には死人や死霊を連想させるイメージは薄い。むしろ乱暴者で人々に迷惑をかけるが、時に改心して良い鬼に変身するものが多い。改心しないような鬼は、テレビドラマでは無いが「桃太郎に退治してもらうぞ」ということになる。最近は懲りない鬼が増えてきて、退治する方も大変である。
 いずれにしても節分の鬼払いと共に、健康で、そして元気よく春を迎えたいものだ。

仏教の散歩道

不殺生戒(ふせっしょうかい)の意味

 仏教には「不殺生戒(ふせっしょうかい)」があります。
 これは、あらゆる殺生をやめるようにと教えたものです。人間はもちろん、犬猫、蝶やトンボ、さらには蝿や蚊やゴキブリまでも殺してはならないのです。
 でも、そんなこと、不可能ですよね。わたしたちは牛肉や豚肉、魚を食べます。食べる以上は殺しているのです。いや、わたしは殺していない。肉屋さんで、すでに殺された肉を買って来ただけだ。そう言う人がおいでになれば、それは暴力団の親分の言い種(ぐさ)です。俺が殺したんじゃない。子分がやったことだ。そう言っているのと同じです。
 あなたが魚を食べるということは、その魚はあなたのために殺されたのであり、あなたが殺したことになるのです。
 したがって、わたしたちは、不殺生戒を完全に守ることはできません。
 では、なんのために不殺生戒があるのでしょうか…?
 ところで、われわれがこのような議論を始めると、必ず次のように言う人が出てきます。
 「だって、人間は、牛や豚、魚、鳥などを食べないと生きていけないのだから、食べたっていいではないか。生きるために必要な殺生なら、許されるべきだ」
 じつは、そういった開き直りにも似た言い分を封じるために、不殺生戒があるのです。こうした発言は、
 -必要性-  
 の上に胡座(あぐら)をかいたものです。必要な殺生であれば許される。そういう考え方をしているのです。
 それがいちばん危険です。そして、仏教の精神に反します。
 でも、日常生活においては、わたしたちは安易に必要性を理由にします。社会の秩序を守る必要があるから、死刑もやむを得ない。国を防衛する必要があるから、戦争をしてもよい。アメリカはそういう理屈でイラクを攻撃し、イラクの民衆を殺します。日本の与党政府もアメリカにおべっかを使うために、アメリカの戦争を支持します。日本の与党政府も人殺しを後押ししているのです。
 あるいは自分の身を守るための殺人は正当防衛ということで正当化されます。「必要性」でもって判断するのがいちばんいけないのです。
 仏教の不殺生戒は、その様な必要性で判断してはいけない、ということを教えたものです。
 でも、わたしたちは生きるために魚や牛、豚を食べねばなりません。不殺生戒は守れません。それなのに、なぜ不殺生戒があるのでしょうか?
 それは、懺悔(さんげ)のためです。
 わたしたちがやむを得ず戒を破って殺生をしてしまった。そういう弱い人間であることを自覚して、ほとけさまにお詫びするのです。そのための戒だと私は考えています。

カット・酒谷 加奈

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