天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第46号

インド・禅定林の大本堂完成

 天台宗開宗千二百年慶讃大法会の記念事業として進められていた、インド・禅定林(サンガラトナ・法天・マナケ住職)の大本堂がほぼ完成し、本年二月八日には落慶式典が盛大に執り行われる。この大本堂は、インド仏教の精神的象徴となるばかりではなく、天台宗の教義に基づく大乗仏教布教の一大道場となる。また、世界平和の祈りの場となることを目的としている。

 サンガラトナ・法天・マナケ師は幼くして来日し、比叡山で修行した後、インド共和国に帰国。現在バンダラ県・ポーニ市ヤード村で禅定林を主催し、仏教活動を続ける一方で、パンニャ・メッタ・サンガ(P・M・S)の代表を務めている。
 P・M・Sは、孤児院「パンニャ・メッタ子どもの家」や、ナグプールで「パンニャ・メッタ学園」、体育館、図書館等を運営している。特に図書館は識字率の向上に取り組むインドにおいては貴重な施設で、数千冊の蔵書があり、毎日百人以上が利用している。
一方、宗教面でインドは、仏教発祥の地にもかかわらず、仏教不在の時代が約八百年間続いた。
 第二次大戦後、「人間平等」を主張するピームラオ・ラムジー・アンベドガル博士は、「インドが抱える諸問題を解決するためには、仏教の精神が必要」とヒンドゥ教から仏教に改宗し、活動を始めた。しかし、依然インドではカースト制度が深く根を下ろし、差別と貧富の上に社会が成り立つ構造は変わらなかった。
 インドにおいて、もう一度仏教を再生しようとしたアンベドガル博士の遺志を継いだサンガ師は、伝教大師が唱えられた「国宝的人材」の育成こそが天命と痛感、仏教の教えが底辺で生きる人々の希望の光としてなくてはならない存在であると実感し禅定林大本堂の建立を発願した。
 大本堂は、サンガ師を中心にパンニャ・メッタ協会日本委員会(P・M・J)の協力のもと建設が進められ、平成十七年に地鎮祭が執行された。釈尊の故郷インドに再び大乗仏教に基づく平等精神を弘める象徴としての意味を持ち、人種・民族・宗教・宗派を超えて人々を受け入れる「智恵と慈悲」の結晶となる。
 また、日本および諸外国からの修行者を受け入れ、人材育成道場の役割も果たすが、サンガ師は「インド大乗仏教の灯火となり、仏教発祥の大地や空気に触れることによって、仏教のみ教えを体得してもらいたい」と語っている。
 本年は、アンベドガル博士の没後五十年であり、禅定林開創二十年の記念の年でもある。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

あなたにとって私とは何だったのか。私にとってあなたはすべてであったけれど。
だが、それも、答は必要としない。

沢木耕太郎/「壇」(新潮社刊)より

 作家の壇一雄さんに「火宅の人」というベストセラーがあります。
 火宅とは、法華経の中にある言葉で、ごうごうと燃えさかる煩悩の火に包まれている家のことです。
 壇さんは、奥様のほかに公然と愛人をつくって、各地を放浪し、それをもとに「火宅の人」を書き上げました。
 その状態は、まさに「火宅」なのですが、作品には不思議な無常感が漂い、無頼派作家の面目躍如というところです。
 さて、ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんは、夫に裏切られた奥様の側からみた、もうひとつの火宅の人を「壇」という作品に結実させました。
 一年余りの取材を通じて、奥様が、その修羅の状態を経て、愛人と別れた壇一雄を迎え、彼の最後を看取り、七回忌を迎えるところが終章です。
 沢木耕太郎は「あなたは、もう一度『火宅の人』を読み返すことがあるでしょうか」と奥様に問います。奥様は「死ぬまで読むことはないでしょう」と言い切ったあと、亡き壇一雄に冒頭のように呼びかけるのがラストです。
 聞き書きには、どうしてもライターの編集が入ります。その通りに奥様が言われたかどうかは別にして、静かで、強く、そして激しい、愛の言葉です。

鬼手仏心

お年玉  天台宗出版室長  谷 晃昭

 
 読者の皆様には、清々しく新春を迎えられたことと思います。本年もよろしくお願いいたします。
 昔は凧揚げ、独楽回し、羽根突きなどがお正月の定番であったが最近はとんとお目にかからなくなった。唯一変わらない子どもたちにとってのお楽しみといえばなんと言ってもお年玉である。普段なら挨拶に出ることもない来客にお年玉目当てにことさら賑々しく新年の挨拶をした少年の頃を思い出す。
 ところでお年玉とは目上のものから目下に対して、年の初めに贈る品、もしくは金銭であるが、年の初めに賜ったものという意味で「お年玉」と言うようになった、という説がある。それとは別に、昔は本当に餅玉を配り、この餅玉を年玉と言ったのが現在のお年玉の始まりという説もあると聞く。 
 語源はいずれでもかまわない。とにかく子どもたちにとって「お年玉」は正月一番の関心事であることにかわりはない。
 さて、その金額であるが、自分の子どもに渡す場合、小学生から中学生で三千円か五千円、高校から上になると一万円くらいだそうだ。親戚では甥や姪あたりまでがその範囲で、これも三千円から五千円が相場だと聞く。また近所の子どもなどにも渡す場合もあるが、二千円か三千円程度で、その親の前で渡すのが良い。
 お年玉は「ポチ袋」に入れて渡すのであるが、これでも数が多くなるとなかなか大変で、しかも千円札がかなり要るのであらかじめ歳末に両替しておかなくてはならない。
 ちなみに「ポチ袋」のポチとは「ぽちっと」とか「これっぽっち」のぽちからきたそうだ。
 いずれにしろお小遣いを賢妻から頂いている身分のお父さんにとって、いい格好するのはなかなか大変である。

仏教の散歩道

無分別智のすすめ ~仏教の散歩道お正月スペシャル~

=誰を助けるのか?=

 インドの民話に、こんな話があります。
 三人組の泥棒が捕まりました。昔のことだから、当然、三人ともが死刑になります。
 しかし、王さまは一人の女性を呼び寄せて、
 「三人のうち、おまえが指名する一人を助けてやる。おまえは誰を助けたいか………?」
 と問いました。じつは三人組の一人は彼女の夫で、もう一人は彼女の息子、残りの一人は彼女の弟です。ですから、夫か息子か、それとも弟か、彼女は誰を助けたいのかを尋ねられたわけです。
 さて、あなたであれば誰にしますか?
 このインドの女性は、
 「王さま、それであれば、どうか弟を助けてやってください」
 と願い出ました。いささか意外な指名ですね。
 「普通であれば、夫か息子の命を助けたいと思うはずなのに、なぜおまえは弟を助けたいのか?」
 ちょっとびっくりした王さまは、女性に尋ねました。
 「簡単なことです。かりに夫が処刑されても、わたくしが再婚すれば新しい夫が出来ます。そして、その新しい夫とのあいだで、息子もつくることができます。けれども、王さま、わたくしの両親はすでに亡くなっています。ですから、弟の代りをつくるわけにはいきません。それで、弟を助けてほしいとお願いしたのです」
 「なるほど、なるほど」
 女性の説明に、王さまは納得がいきました。そして、王さまは言いました。
 「いや、おもしろい。それじゃあ、三人とも釈放してやろう」
 かくて、彼女は三人の命を助けることができたのです。メデタシ、メデタシ。
 で、これでインドの民話は終わりですが、いかがですか? みなさんはどう思われますか………?
 わたしはへそ曲がりなもので、この結果をもって「メデタシ、メデタシ」と言いたくありません。反対に、わたしに言わせるなら、この女性は地獄に堕ちたと思いますよ。
 なぜなら、釈放された夫は妻に、
 「おまえは俺よりも弟のほうが大事なんだな………。それじゃあ、弟と一緒に暮らせ!わしはおまえと離婚する」
 と言うでしょう。そして息子も、
 「お母さんは、ぼくよりも叔父さんのほうが大事なんだね。ぼくなんか、どうだっていいんだね」
 と、母親を怨むでしょう。そして、家を追い出された女性を、弟が引き取ってくれるかどうか、これはわかりませんね。弟だって、
 「そりゃあ、姉さんが悪い」
 と言うかもしれません。下手をすれば、彼女は路頭に迷うでしょう。
 では、彼女はどうしたらよかったのでしょうか………?

=分別智ではなく無分別智=

仏教は「智慧の宗教」です。智慧を持ちなさいと教えています。
 しかし、その智慧は、「分別智」であってはいけない。「無分別智」でなければならないのです。
 分別智というのは、わざわざ分別する必要のないものを分別して、「どちらがいいか?」と判断するような智恵です。一休さんにまつわるこんなエピソードがあります。
 あるとき、小坊主の一休さんは、
 「坊やは、お父さんとお母さんの、どちらが大事だと思うか?」
 と質問されました。すると彼は、持っていた煎餅を二つに割って、
 「おじさん、この煎餅、左と右のどちらがよりおいしい?」
 と訊き返したのです。一枚の煎餅を二つに割って、「どちらが………?」と考える必要はありません。同様に、両親をわざわざ父と母に分解して、「どちらが大事か?」と問うのはナンセンスです。一休さんはそのことを教えたのです。
 そして、これが分別智です。両親を二つに分別した上で、「どちらが…?」と考える智恵です。仏教は、そんな分別智ではなく、無分別智を持てと教えています。両親は両親のままにするのです。
 では、王さまが、夫か息子か弟か、いずれか一人だけ助けてやると言われたら 、女性はどうすればいいのでしょうか………?
 「いいえ、王さま、わたしには三人から一人を選ぶなんてことはできません。それでしたら、三人とも殺してください」
 そう答えるのも無分別智です。あるいは、
 「ついでに、わたしも一緒に死にます」
 と言ってもよいでしょう。
 しかし、誰か一人は助かるのです。三人とも死ぬ必要はありません。そうすると、こんな方法が考えられます。
 「王さま、ここにサイコロが二個あります。このサイコロを振って、出た目が三で割り切れたら夫を、三で割って一が余ったら息子を、二が余ったら弟を助けてやってください。わたしには選べませんから、サイコロで決めてもらいます」
 すると王さまは、「そなたはなかなかおもしろい女だな。よし、三人とも釈放してやる」と言うかもしれません。そうすると、本当にメデタシ、メデタシになります。
 これが仏教の教える無分別智です。 

カット・酒谷 加奈

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