天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第45号

ニューヨーク別院 本堂落慶一周年記念法要を厳修

 北米で唯一の天台寺院であるニューヨーク別院(聞真・ポール・ネーモン住職)の本堂が昨年六月に落慶してから一年が経過し、天台宗海外伝道事業団は同事業団副会長菅原信海妙法院門跡門主はじめ同事業団副理事長の山田俊和中尊寺貫主ら二十五名の参拝団を派遣、去る十月二十一日、一周年記念法要を執り行なった。

 記念法要は、大導師に菅原信海同事業団副会長を迎え、副導師はニューヨーク別院聞真・ポール・ ネーモン住職が務めた。
 この一周年法要は別院が落慶してから初めての護摩供法要となった。
 日本からは数十名が出仕、随喜し、現地アメリカからは、ニューヨーク別院信者を含め約八十名が随喜した。
 特に仏教を学んでいるメンバーは不動真言を唱えながら、初めて目の当たりにする護摩供修法を真剣な眼差しで見つめていた。
 護摩修法後は法楽として、別院メンバーによる英語の『般若心経』『宝号』、同じく英語の『後唄』が唱えられ文字通り日米合同の一周年法要となった。
 法要後の式典では菅原副会長より、ハワイ別院に続き、アメリカ本土開教への第一歩となったニューヨーク別院落慶一周年への祝いの言葉が贈られ、「これからの世界には特に大乗仏教の他人を救うという精神が必要である」と、今後の同別院の活動に期待する言葉があった。  
 ニューヨークでは十月になると雪が降ることもしばしばであるが、当日は爽やかな秋晴れに恵まれた素晴らしい一日となり、新たな出発を祝うかのようであった。

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 瀬戸内寂聴師に文化勲章

 作家で、天台僧でもある瀬戸内寂聴師が十一月三日、文化勲章を受章した。
 受賞理由として、近代における自我に目覚めた女性を描き、自らも出家をして、その後の生き方の中から、独自の文学空間を構築したことがあげられている。近年は、源氏物語の現代語訳を刊行し、世代を越えて幅広い支持を得ている。
 略歴 一九二二年、徳島市生まれ。権僧正。一九七三年、中尊寺で今東光貫首を師に得度。一九八七年より二〇〇五年まで岩手・天台寺住職。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 妻 
ひょっとしてこれはわたしのために生まれてきてくれたひとではなかったか
あんまり身近にいてくれるので気づかずにきたのだが
              

東井義雄/『東井義雄詩集』探求社刊より

 日本の自殺者は、三万人を超えました。その中に、いじめによる子どもの自殺者は何人いるのだろうかと考えると、やりきれない気持ちになります。
 今、あなたの横にいる人は、ひょっとしてあなたのために生れてきた人かもしれません。家族も、友人も、ただ、すれちがっただけの人も。
 「ああ、きれいだな」と思った花も、あなたのために、この世に咲いているのかも知れないのです。
 この世にあるものは、すべてあなたのために、仏さまが使わしてくださったのかも知れないのです。あんまり身近にあるので、気がつかずにいるだけなのではないでしょうか。その御縁というものを感ずれば、人間ばかりではなく、動物も、植物だっていじめたり、粗末にはできないはずです。
 また、学校の先生方も、教育委員会の方々も、いじめられている子どもたちは、いえ、いじめている子どもたちも「あなたのために 生れてきてくれた」子どもなのかもしれません。どちらの子ども達も、助けを待っています。その声を聞く努力を忘れないで欲しい。
 子ども達にも、大人たちにも「今日一日、生きることは、人をいじめるためではなく、わたしのために生れてきてくれた人に出会うということなのです」と言ってあげたい。

鬼手仏心

貧しきグルメ  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 秋の行楽シーズン、各地の紅葉がハイビジョンテレビで中継される。日本の四季の行事である。
 行楽といえばお弁当が楽しみの一つであるが、最近のお弁当は実に手が込んでいる。料亭の板前さんやら、有名ホテルのシェフの名前を冠した弁当がかなりの値段で売られている。
 ふたを開けると色彩豊かに四季折々の食材がきれいに並べられ、味よりも目で楽しむのではないかと思うばかりである。
 「食」の文化はその国や地域の文化そのものである。従ってかなり極端な好き嫌いを生ずる。初めて訪れた土地で懐かしい味に出会うこともあれば、受け入れ難い食材に会うこともある。 
 更に外国では宗教による「食」のタブーが日本人には想像できないほど厳しく、無知から思わぬトラブルに巻き込まれることもある。
 「食」が宗教で規制されている社会に比べると今の日本は「食」のボーダーレス社会と言える。世界各地の料理が揃い、様々な食材が手に入る。日本人に有るのは旺盛な好奇心であり、宗教的タブーはほとんどない。それを裏付けるように「食」の情報はインターネットに氾濫し、グルメ番組の放映が無い日はない。それはそれで結構だが、私にはどうも違うのではないかと思われてならない。
 いくら豊かになったとは言え、日本では、本来「食」はもっと、まじめで真剣なものであった。ご飯粒の一つでも残すと「もったいない」と叱られ、「好き嫌いを言わずに頂きなさい」と言われて育った人間には、食べ物を粗末に扱うことで笑いを取ろうとするテレビ番組は「食」に対する冒涜に思える。
 冬が近い。
 秋の恵みも素晴らしかったが、自然の恵みを感謝をもって味わいたい。

仏教の散歩道

仏教は道徳ではない  ひろ さちや

 仏教は道徳ではありません。にもかかわらず日本のお坊さんの多くが(全部ではありません)、「履物をちゃんとそろえなさい」「遅刻をしてはいけません」「親孝行をしなさい」といったふうに、道徳ばかりを語られます。あれはいかがなものかと思います。
 そもそも道徳というものは、強者の都合のいいようにつくられています。したがって、弱者にとっては道徳はいやなもの、好ましくないものです。
 たとえば遅刻です。社長と社員が待ち合わせをして、社員が遅刻したとします。彼はこっぴどく叱られるでしょう。場合によっては首になるかもしれません。
 だが、社長が遅れたときは、
 「待たせたね」
 と言うだけです。社員に謝罪なんてしません。それどころか、心の中で、
 〈俺は忙しい人間なんだ。今日も大事な商談があって遅刻したんだ。俺が遅刻せずにここにこれるということは、会社が潰れることなんだ。だから、俺の遅刻を社員は感謝すべきだ〉
 と思っているかもしれません。まさか、そこまで……とは思いませんが、そういう可能性もあります。
 学校に遅刻すると、児童や生徒はこっぴどく叱られます。でも、叱る先生は一度も遅刻しなかったのでしょうか。先生が遅刻すれば大目に見てもらえる。道徳というものは強者に都合よく出来ています。いや、道徳は、強者が弱者を支配し束縛するための武器、と言ってもいいくらいです。
 しかし、宗教は弱者のためのものです。弱者の味方をしない宗教は、つまりは強者に荷担して弱いものいじめをする宗教は、わたしはインチキ宗教だと思います。
 いえ、本当を言えば、『法華経』の「譬喩品」にあるように、
 《今、この三界は 皆、これ、わが有なり。その中の衆生は 悉くこれ吾が子なり》
 であって、この世界は仏の世界であり、われわれ衆生はみんな仏の子なんです。だから、強者も弱者もみんな仏子であって、仏は弱者だけの味方ではありません。でも、強者のほうは別段仏が味方をしないでも、ちゃんとやっていけます。しかし、弱者は、仏が味方をしてくださらないと、強い者にいじめられてしまいます。だから、仏は弱い者に味方をされるのです。ちょうど病気の子を、親が気遣うのと同じです。
 ここのところが大事です。強者と弱者があれば―どんな世の中にも強者と弱者があります―仏はいつでも弱者の味方です。それが宗教というものの本質です。
 だから、宗教は道徳ではありません。お坊さんはあまり道徳的なことを言わないで下さい。道徳的な発言ばかりしていると、仏教が死んでしまいます。わたしはそのように考えています。

カット・酒谷 加奈

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