天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第42号

「世界平和祈りの集い」を開催

 比叡山宗教サミット十九周年「世界平和祈りの集い」が、八月四日に比叡山延暦寺・一隅を照らす会館前広場において開催された。今年世界平和を祈るために集った参加者は約六百名。猛暑の中、明年に迎える第二十回記念の集いに向けて「対話」と「祈り」の継続を誓い合う集いとなった。

 「世界平和祈りの集い」開式にあたって、濱中光礼宗務総長は「今なお、正義の名をかりた武力行使やテロなどによって紛争が続いている。どの宗教も、平和を求め人々の幸せを祈るものであるのに、宗派間内部の抗争や、宗教間の紛争は絶えず『紛争の根に宗教がある』とすら指摘されている。暴力を否定抑制すべき宗教が暴力を助長するなどということはあってはならない。我々は、真に平和を希求する宗教者として心を一つにし、世界から偏見と無関心、貧困と暴力をなくすために集った」と決意を述べた。 
 このあと、比叡山幼稚園園児や「天台青少年比叡山の集い」で登叡し、同祈りの集いにも参加した青少年達から献花が行われた。
 渡邊惠進天台座主猊下は「仏教には『怨みに報いるに怨みをもってせば怨みは絶えず。怨みに徳をもってせば怨み終いに止む』という教えがある。憎しみの鎖を断ち切り、当事者が相互理解をするためには、この教えに基づくより他はない。この考えを広く理解していただくことが平和の実現に繋がる」と平和祈願文を読み上げた。
 このあと各宗教宗派の代表者が登壇し、比叡山で打ち鳴らされた平和の鐘に合わせて世界の平和を祈った。
 そして第一回の「世界平和祈りの集い」で発表された「比叡山メッセージ」が朗読されたあと、半田孝淳曼殊院門跡門主が「平和を語る」と題して、アッシジの精神を引き継ぎ、十九回にわたる「世界平和祈りの集い」に貢献してきた自らの歴史を振り返り、伝教大師の「一身弁じ難く衆力成じ易し」の言葉を引きながら、明年の二十周年に向けての期待を表明した。
 続いて青少年たちが「世界の恵まれない子ども達のために」と出し合った寄金が小堀光詮三千院門跡門主からユニセフへ寄託された。
 またバチカンや中国仏教協会から寄せられたメッセージが披露されたあと、平和の合い言葉が唱和され、清原恵光延暦寺執行が閉会の辞を述べて終了した。

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戸津説法・小林師(延暦寺一山・千手院住職)が務める

 延暦寺一山千手院住職の小林隆彰大僧正(延暦寺学問所所長)が、大津市下阪本の東南寺で、八月二十一日から二十五日までの五日間、戸津説法を行った。
 小林師は、法華経八巻二十八品と無量義経や観普賢経などについて解りやすく説き、得意の話術で聴衆を魅了した。連日の猛暑にもかかわらず、全国各地から聴聞に訪れた大勢の人々は、熱心に耳を傾けメモを取る姿も見受けられた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

「静かに行く者は健(すこ)やかに行く 健やかに行く者は遠くまで行く」

城山三郎 「打たれ強く生きる」より

 城山さんは、同書の中で、経済学者ワルラスが好んだ言葉として紹介されています。
 スローライフ(ゆっくり生きよう)がブームです。仏教の世界は、お釈迦様以来、ずっとスローライフです。仏教は自然の流れを大切にして、物欲を離れて生きることを理想としてきました。僧侶は、生かされていることに静かに感謝し、自己を振り返り、日々を正しく過ごすように心がけます。
 そうすることが、健やかに行く道であり、ひいては「遠くまで行ける」ことを、先人の足跡や、お釈迦様の教えからよく知っているからです。遠くとは、遙か先の道という意味も、もちろんありますが、そればかりではありません。大きくとらえれば「悟り」ともいえるでしょう。
 けれども、遠くまで行くことが目的ではないのです。
 大乗仏教では「自利利他」といいます。伝教大師は「自利とは利他をいう」とおっしゃっています。「人が幸福になるために尽くす、その中に自分の幸福もあるのだ」ということです。効率一番で自分だけが利益を得るのは仏教では良いこととはされません。
 静かに歩みながら、健やかな人生を送りながら、そのことを心がけてゆくのです。人々の幸せを祈り、助けながら遠くまで行きましょう。

鬼手仏心

「石油依存」  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 原油価格が高騰しています。湾岸戦争時の高値以上だそうです。
 中東地域の混乱が原因とされますが、限りある資源と言われて久しい化石燃料をこの際買い占めて大もうけ、という投機的な動きも要因と言われます。おかげで石油関連商品も次第に値上がりし、私たちの生活にも影響がでてきています。 
 そこで改めて周りを見渡すとガソリン・灯油はもとより、直接・間接に石油に依存しない製品は無いと言ってもいいことに気づきます。
 米や野菜も今や石油無しに生産できず、その上、石油系の包装用品で包み、石油の力で運搬され私たちの前にならべられています。
 言ってみれば私たちの周りは着ている物から、食べる物まで石油まみれで暮らしている訳です。原油のほとんどを外国に頼っている我が国としては誠に困ったことであります。
 私たちは過去にも石油ショックを何度か経験しました。そのたびに大騒ぎしたにも関わらず、のど元過ぎればの喩えで深刻さを忘れてしまうのです。
 この際、石油の値上がりを嘆くだけでなく一人ひとりが、生活スタイルのスリム化についてじっくり考えてみてはどうでしょうか。普段ほとんど気にすることもない一滴の水、一かけのパンにも、もう一度目を向けてみてはどうでしょうか。
 日本には夏には夏の、冬には冬の生活スタイルがありました。季節季節の食べ物がありました。自然の恵みを生かした生活がありました。いまさら江戸時代の完全リサイクル生活には戻れませんが、こんなことの積み重ねが単に省エネルギーだけでなく、地球環境や食料や飢餓の問題につながります。
 これもまた、大切な「一隅を照らす」心です。

仏教の散歩道

「反省するな!」

 普通、世間の常識だと、失敗したり過ちを犯したときには、「しっかりと反省しなさい」となるでしょう。だが、仏教の教えだと、反対に「反省をするな!」になります。わたしはそう思います。
 なぜなら、「反省」というものは、たいていが自己弁護になってしまうからです。
 そうですよね、わたしたちは、
 〈そりゃあ、わたしが悪かった〉
 と反省を始めるのですが、そのあとに、
 〈でもね、あのときは、ああするよりほかになかったんだ。やむを得なかったんだ〉
 と続けます。そして、挙句は、
 〈あいつが悪いんだ。あいつがあんなことをしなければ、こういう結果にならなかったんだ。俺はちっとも悪くない〉
 となるのです。そういう「反省」であれば(「反省」は所詮そういうものですから)、する必要はありません。いや、むしろしてはいけないのです。
 では、何をするべきでしょうか………?
 そこで、仏教が教えているのは、
 - 懺悔(さんげ)- 
 です。懺悔は一般にはざんげと発音されますけが、仏教語ではさんげになります。
 懺悔の場合、まず重要なことは、わたしたちは仏に向かって懺悔をするのです。直接、迷惑をかけた相手に懺悔すれば、それは謝罪やお詫びになり、真の懺悔になりません。なぜなら、かりに相手が「許さない」と言えば、「でも、おまえにだって越度(おちど)があるじゃないか?!」と、開き直って相手の攻撃を始めかねません。謝罪というものは、だいたいがそうなんです。
 だから、懺悔は、われわれが仏に向かってするものです。それがいちばん重要なことです。
 そうすると、わたしたちは自分が犯した罪過をしっかりと自覚する必要があります。〈これぐらいのことは許されるだろう………〉と、自分勝手に判断してはいけません。仏に向かってする懺悔ですから、仏の目でもって見る必要があります。どんな些細(ささい)な罪過でも、仏の目でもって見て、それを自分の罪過と自覚するのです。
 いいですか、懺悔というのは自分が犯した罪過を自覚し、仏に赦(ゆる)しを乞うことであって、他人の罪過を糾弾(きゅうだん)することではありません。他人は無関係です。と言うより、そこに他人の行為が関与するようであれば、真の懺悔にはなりません。〈仏さま、そりゃあわたしも悪かったのですが、あの人だってよくないのです〉といった気持ちがまじっているとそれは懺悔ではないのです。でも、わたしたちは、ついつい他人を引き合いに出しますね。
 懺悔というものは、徹頭徹尾、自分の弱さを仏に赦してもらう行儀です。そのことを忘れないでください。

カット・酒谷 加奈

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