天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第40号

「風の不思議を突っ走れ!」
8月に能登で日本ジャンボリー 天台宗スカウトも二百余名参加

 来る八月三日から七日にかけて「第十四回日本ジャンボリー」が石川県珠洲市で開催される。「日本ジャンボリー」は全国の代表スカウトたちと海外からのスカウトが一堂に集う、我が国最大の国際キャンプ大会で、四年に一度開かれる。今回は海外参加者約二千名を含む二万名を超える規模となる。
 天台宗に属するスカウトも全国から関係者を含め、二百名以上が参加を予定し、国内外のスカウトと交流を深める。

 来年、スカウト運動は百周年を迎える。今大会は、その歴史を振り返り、原点を見つめ直し、世界スカウト運動創始百周年記念事業の世界共通テーマ「ひとつの世界、ひとつのちかい」を実践する記念の大会と位置づけて開かれる。
 スカウト運動は、英国の退役軍人、ベーデン・パウエル卿が、戸外活動を通じての青少年の健全育成を目指して創設したボーイスカウトが始まり。宗教の多様性を認め、それぞれの宗教の尊厳を尊重しており、現在では、欧米はもとより、アジア、アフリカ、イスラム圏など幅広く、世界に広まっている。
 日本においても仏教、神道、キリスト教など多くの教宗派がスカウト組織を持っている。天台宗では、十カ寺で十三団が組織され、活動を行っている。
 今回の大会では、「風の不思議を突っ走れ!」をテーマに海外からの参加者や、様々な信仰、知識、経験を持ったスカウト達と現今の共通課題である地球環境保全について話し合いをする。また、各宗教の儀礼体験や信仰を学ぶプログラムもあり、これからの将来を担う青少年の成長に大きな経験となる催しである。
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今年も広島で世界平和の祈り
7月14日・広島記念公園 酒井雄哉大阿闍梨を導師に

 来る七月十四日午後二時より、広島平和記念公園において「開宗千二百年慶讃大法会・戦没者慰霊・世界平和の祈り」法華経読誦法要が、酒井雄哉大阿闍梨を導師として執り行われる。主催は三県特別布教・広島県特別布教実行委員会。

同法要は、昨年に開宗千二百年慶讃大法会記念事業の一環として厳修された「戦没者慰霊・世界平和の祈り」採灯護摩供法要に引き続いて営まれるもの。
 昨年の法要は、天台の寺院が少なく、その教えに接する機会が少ない沖縄、鹿児島、広島の三県に対する三県特別布教の一つとして実施された。
 同時に、広島の地が、被爆・終戦六十年を迎えたことで、戦争犠牲者の鎮魂と世界の平和を祈る法要でもあった。
 昨年と同様、本年も慰霊と平和希求の法要がこの広島の地で行われるのは、三県特別布教としてと共に、戦争の悲惨さを忘れることことなく、平和実現への取り組みを持続的に進めている天台宗としての姿勢を示すものである。  

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

「雲涼し 道ひとすぢに ひたすらに」

野見山 朱鳥(のみやま あすか)

 野見山朱鳥は、筑豊炭田で栄えた直方市で大正六年に生まれました。
 「なほ続く 病床流転 天の川」他で、昭和二十一年十二月号、『ホトトギス』通巻六百号の、虚子選雑詠巻頭句に選ばれています。
 「生命諷詠」を唱え、「伝統の継承とは、人によって耕された土地の稔りを刈り取ることではない。自己がひとりで荒れ地を耕すことなのだ」といい、また「毎日一歩一歩進む者が結局勝ちである(略)。毎日一歩一歩進むことは最も骨の折れる仕事であるが、打ち込んでやればやれないことはない」と主張した俳人でした。
 中学卒業と同時に胸を病み、社会人になっても病気がちで、生涯の三分の一を病床に過ごした人生でした。それだけに気迫を奮い起こそうとする精神力にうたれます。
 私たちは何気なく毎日を過ごしていますが、「雲涼し」と感ずる瞬間がどれだけあるでしょうか。
 ありがたい自然に抱かれていることを思い、毎日、毎日の道を一歩一歩ひとすぢに、ひたすらに打ち込んで生きてゆくことが大事です。多くの人は「それしか出来ない」と恥ずかしそう言われるのですが、それは尊い生き方です。そのような生き方こそ、仏さまに一番近い道でありましょう。
 「うれしさは 春の光を 手に掬(すく)い」これが朱鳥の代表句です。

鬼手仏心

筍(たけのこ)   天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 先日、知り合いのお寺さんから筍を頂いた。境内の竹林でとれた物だそうだ。切り口から水分が滴(したた)り落ちるほど採りたての瑞々(みずみず)しい筍で、早速、次の朝、みそ汁に入れて頂戴した。
 この季節の筍の成長は将(まさ)に驚異的で、一日に二十ほど伸びるそうである。その秘密は竹の節(ふし)にあり、ちょうど提灯(ちょうちん)の蛇腹(じゃばら)のような仕組みになっていて、それぞれの節の成長帯が一斉に伸びることであのような成長を見せる。 また、伸びるときの力も相当なもので、実際に床下から生えた筍が畳を押し上げた経験をしたことがある。手でも簡単に折れそうな柔らかさからは想像もできない強さである。そして半年ほどで親竹と同じ大きさに成長し青々とした竹林の一部となる。
 私の寺は群馬県にあるが、冬から春先にはちょっとした台風並の「空っ風(からっかぜ)」が連日のように吹く。それを防ぐため、屋敷の北側と西側に竹藪を配置した家が多い。自坊もそうであった。子どものころ、布団に入って寝入るまで、ゴウゴウとなる竹林の風音が子守唄であった。
 いくら風が強くても、竹林が吹き飛んだり、根こそぎ倒れたと言うことは聞かない。しなやかに風を受け止め、風が吹き止めば何事も無かったようにまた天に向かって緩やかに揺れている。まことにしぶといものである。その上、竹は真っ直ぐで中空になっている。さらに間隔良く節がある構造が便利に使われ、昔から様々な道具として重宝されてきた。
 今では手間と経済性の理由から、その多くがプラスチックに代わってしまった。なにも土に戻ることのないプラスチックを使わずとも、自然の竹を使う工夫をしたら良かろうに、と思う。銀行で粗品にくれるプラスチックの団扇(うちわ)で涼をとりながら、夏になればそんなことを考える。

仏教の散歩道

座らないでいる布施

 息子が大学生のときでした。だから、もう十五、六年も昔の話です。たまたま一緒に電車に乗りましたが、息子はわたしの前に立っています。始発駅からの乗車で空席がいっぱいあるのに座らないのです。
 「お父さん、この電車はね、途中駅から満員になるんだよ。だから、ぼくは座らないでいるんだ」
 と息子はその理由を説明しました。それを聞いて、わたしは、
 「じゃあ、満員になった時点で立てばいいじゃないか…」
 と言ったのですが、息子は、「それは面倒だから、はじめから立っているんだ」と言います。
 そのときは、どうも釈然としませんでした。だが、のちに道元禅師の『正法眼蔵』を読んでいて、
 《布施といふは、不貧(ふとん)なり。不貧といふは、むさぼらざるなり》(「菩提薩垂四摂法」)
 という言葉に出会ったとき、〈ああ、息子のほうが正しかったんだな〉と思いました。
 普通は、布施というのは施すことだと説明されます。電車の中で座席を老人やハンディキャッパーに施すも、立派な布施です。ところが道元禅師は、貪らない、欲張らないことが布施だと説明されています。電車の中ではわたしたちは、できれば座りたいと思います。そのような欲望があります。しかし、それを我慢して、座らずに立っているのが、道元禅師によるとすばらしい布施だとなります。
 考えてみれば、満員になってから席をゆずるつもりでいても、目の前にたっている人が自分よりも若い人間であれば、席をゆずるのがおかしくなります。譲られたほうも、すんなりと座れませんね。そうすると、場合によっては布施ができなくなります。
 それに、この人には譲りたい、しかしこの人には譲りたくないといった気持ちがあるようでは、その布施は不純になります。こだわりなく施すことができてこそ、真の布施なのです。だとすると、わたしの息子のように、はじめから座らずに立っているのがすばらしい布施なのです。道元禅師が言うのも、そのことでしょう。
 そうすると、こんなふうにも考えることができます。たとえば、七人が座れるシートに六人が座っていることがあります。その場合、その六人が少しずつ詰めることによって、あと一人が座れるわけです。それはその通りですが、やはり七人が座ると窮屈です。七人が七人とも窮屈を感じています。
 では、そのまま六人を座らせてあげて、あなたは立っている。そうすると、あなたは六人に布施をしたことになりませんか。あなたは座りたいのを我慢して立っているのです。そういう布施もあります。そう考えると、おもしろい布施ができそうです。

カット・酒谷 加奈

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