天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第36号

雪に埋まった寺院を救え!
神奈川仏青が除雪ボランティア派遣

 記録的な豪雪にみまわれた信越教区新潟部に、神奈川教区仏教青年会(大久保信祥会長)が除雪ボランティア有志十三名を派遣し、同教区の常行寺(北魚沼郡・石田俊明住職)の除雪を行った。

 今回の豪雪は、新潟中越地震で被災した信越教区新潟部の各寺院にとって、復興途上での二重の苦しみとなっている。
 神奈川仏青の大久保会長は、昨年末より豪雪被害を受けた寺院・檀信徒に対し雪かきのボランティアが出来ないものかと、会員に発案したところ、多くの賛同を受け、特に被害の大きい信越教区に支援活動の打診を行った。
 信越教区からは、新潟部の常行寺が「記録的な大雪で本堂・庫裡が埋没している」との情報が寄せられた。
 さっそく除雪ボランティアを募ったところ、十三名が参加を表明した。

 二月七日早朝四時に大久保会長の自坊、川崎の無量院にメンバーが集合、除雪道具を車に詰め込み出発した。約五時間後、現地に到着。
 現地は行く前の想像を遙かに越える状況で、常行寺の辺りは積雪が四メートル近くあり、本堂の周辺、庫裡の裏の方は完全に埋まり、屋根だけが見える状態だった。石田住職の話では、十九年振りの大雪で、ここまで積もることは近年ないとのこと。
 除雪作業最初は雪に足を取られるなど難航を極めた。雨のため、一日目は午後四時で終了。二日目は、夜からの雪も作業開始頃には止み、作業にも慣れたこともあって本堂と庫裡の裏周辺を除雪した。屋根から雪崩のような雪の大量落下で、あわや、巻き込まれそうになるハプニングもあったが、両日に亘る除雪作業は順調に終了した。
 豪雪の全体的被害が判明するのは本格的に雪が溶けてからになる。
 今後は、ボランティア活動に続く、地道な支援が必要になりそうだ。
 

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 もう一つ心にのこったのは、おじさんが、
「にわとりは生まれて百五十日でたまごをうみ始めて、人間のために一年間に二百七十コから二百八十コもたまごをうんでくれるんだよ。そして五百二十日くらいで肉になって命を落としてしまう。人間は、トリの命をもらったことを受けとめて、トリに感しゃすることが大事だね」
 と言われたことだ。たまごや肉を食べる時、トリの命と育ててくれた方に感しゃしなくてはいけないと思った。

「命を大切にするこころ」 天拝小学校三年 渡邉 倫子

 今、静かな論争を呼んでいる「いただきます」をご存じでしょうか。発端は、東京都内の男性から寄せられた手紙です。その手紙を永六輔さんがラジオで「びっくりする手紙です」と紹介したことから火がつきました。
 ある小学校で母親が「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と申し入れたというのです。
 番組には、リスナーから大きな反響があったといいます。多くはこの発言に否定的だったようですが、なかには「食堂で『いただきます』『ごちそうさま』と言ったら、隣の人に『何でそんなこというの?』と言われた。『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、逆に店がお客に感謝すべきじゃないの』と言われた」という意見もありました。寂しいなア。豊かな国ニッポン。
 「いただきます」とは命をあたえてくれた生命に「あなたの命をいただきます。ごめんね。ありがとう」ということです。
 小学校三年生の少女だって、いや、だからこそ曇りのない目でみれば、そのことははっきりと見えるのに。なんでもお金を払えば許されると思っている人々が増えている悲しい現実が見えてきます。

*九州電力主催 平成十七年度 「夏休み作文」
 金賞 「命を大切にするこころ」より

鬼手仏心

科学技術と仏心  天台宗出版室長 小林 祖承

 
 今年の初めに、景気の回復が期待されるとか日本海側に記録的な降雪があったなど、明暗取り混ぜたニュースがあった。その中で一件、妙に気に懸かるものがあった。
 それは、「日本学術会議が科学者の行動規範を制定する方針を固めた」という報道である。論文の盗用、実験結果の改ざんなど、内容に疑義のある研究事例が増え、放っておけなくなってきたというのが理由だろう。
 行動規範を制定するというなら、ここで一つお願いがある。その研究を「倫理面」から考えるという視点を加えてほしいのである。つまり、研究目的はどうか、有用性はどの程度か、成果が出たときその影響はどうか、危険な転用が予測されないか、など、倫理上の評価である。
 元来、科学技術の研究目的は人間の利便、幸福に資するものであろう。これまでの歴史を振り返れば、科学技術の発展がどれ程人間の生活を豊かにしてきたか、言わずもがな、である。しかし、その発展が核兵器を生み、クローン技術の進化が人間の「生命倫理 」の概念を脅かしている。今では、一つの科学技術が人類、さらには地球の存亡に直結する事態を生むことも考えられるのである。もはや、科学研究においては、倫理上の評価を外せない時代が到来していると思えてならない。
 天台教学における十界互具(仏・菩薩及び地獄などの十の境界は外にも、そして個々にも内在する)の教えによれば、われわれ人間には仏の心と鬼の心が併存する。科学技術が『鬼心』に手を貸し、悪魔の道具と化すことのないよう、慎重の上にも慎重を期した姿勢が求められている。 

仏教の散歩道

ないものねだり

 仏教の講演会に講師として招かれて行くのですが、主催者は聴衆がどれくらい集まるかを心配されます。あまりにも聴衆が少なかった場合、
 「わたしどもの努力が足りなかったのです。申し訳ありません」
 と、謝られるわけです。そのとき、わたしはこんな話をします。
 大学生のとき、教室で先生が、
 「最近は欠席する学生が多い。よろしくない」
 と説教されました。それを聞いてわたしは、
 〈なぜ出席しているわれわれが叱られねばならないのか?!叱るのであれば、欠席している(ここにいない)学生をしかるべきなのに…〉
 と思ったものです。それと同様に、講演会に来なかった人を問題にするのはおかしいのです。会場に来てくださった聴衆を-たとえそれが少数であっても-大事にすべきです。その意味では、聴衆が多いか少ないかは、講演者は考えないほうがよい。わたしはそのように思っています。
 それから、こんな話もあります。
 京都でタクシーに乗ったとき、運転手さんに尋ねました。駅前で長時間、客待ちしたあと、運悪く、近距離の乗客になったとき、がっかりしませんか、と。
 「いいえ、近距離の客が運が悪いというのは違います。近距離の客を運んだあと、次々と客に恵まれることが多いのです。近距離の客は、乗客の多い場所に連れて行ってくれるわけですね。遠距離の客はどちらかといえば、辺鄙な場所に連れて行かれることになり、帰りはずっと空車ということが多いですね。だからわたしは、ワン・メーターのお客さんを大事にします」
 運転手はそう答えました。ものは考えようですね。
 ところで、仏教の教えは、
 -いま・ここ-
 を大事にしろ、というものです。わたしたちは、いまある現在、いまいる場所で生きているのですが、その「いま・ここ」を忘れて、別の場所、別の時間ばかりを考えてしまいます。それは愚かなことなんですが、しかもわれわれはそれに気づかないのです。
 講演会においても、いくら〈もっと聴衆が多ければよいのに…〉と思っても、いま、その場所にはその聴衆しかいないのだから、その聴衆を大事にすべきです。タクシーの運転手が、〈もっと、ロングのお客が乗ればいいのに…〉と思っても、いまの乗客は近距離のその客なんです。だから、その乗客を大事にすべきです。
 要するに、「ないものねだり」をするな!ということなんです。わたしたちは、「いま・ここ」をしっかりと生きましょうよ。

カット・酒谷 加奈

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