天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第34号

濱中新内局が発足

 任期満了に伴い昨年十一月に行われた宗務総長選挙で選出された、濱中光礼新宗務総長の新内局が、昨年十二月十二日発足した。滋賀院門跡において新内局の親授式が行われ、渡邊惠進天台座主猊下から濱中総長と新内局に辞令が手渡された。任期は四年。

 新内局は、総務部長に前延暦寺副執行の小林祖承師、法人部長には前一隅を照らす運動総本部長の壬生照道師、財務部長に前岡山教区宗務所長の山本亮裕師、教学部長に天台宗宗議会議員で関東の宗政会派新成会幹事長の谷晃昭師、社会部長に栃木教区布教師会長の源田俊昭師、一隅を照らす運動総本部長に関西の宗政会派道興会会長の秋吉文隆師がそれぞれ就任した。
 親授式の後、宗務庁において記者会見が開かれ、席上濱中新総長は「天台宗として、しっかり足下を見つめて四年間職責を全うしたい。一宗には寺院運営上、苦労を重ねている寺などもあり、教区とも良く意志疎通を図り、全ての寺院住職が僧としての活動が存分に出来るように支えていきたい。開宗千二百年大法会についても西郊内局の方針を受け継ぎ、お大師様のみ心の宣布に努めていきたい」と抱負を語った。

 濱中総長及び内局参務の略歴は次の通り。〈敬称略〉

■宗務総長
濱中光礼(はまなか・こうれい)
昭和十四年生まれ、六十六歳。僧正。滋賀教区金剛輪寺住職。明治大学政治経済学部卒。〈宗内職歴〉天台宗民生・児童・主任委員会会長、教区議会議員、宗議会議員二期

■総務部長
小林祖承(こばやし・そじょう)
昭和二十三年生まれ、五十七歳。大僧都。延暦寺一山止観院住職。叡山学院専修科卒。〈宗内職歴〉祖師讃仰大法会事務局幹事、延暦寺副執行

■法人部長
壬生照道(みぶ・しょうどう)
昭和十四年生まれ、六十六歳。権大僧正。信越教区隣政寺住職。大東文化大学文学部卒。〈宗内職歴〉教区議会議員、宗務所長、一隅を照らす運動総本部長

■財務部長
山本亮裕(やまもと・りょうゆう)
昭和二十一年生まれ、五十九歳。僧正。岡山教区高福寺住職。叡山学院本科卒。〈宗内職歴〉教区主事、教区宗務所長二期

■教学部長
谷 晃昭(たに・こうしょう)
昭和二十三年生まれ、五十七歳。僧正。群馬教区西光寺住職。大正大学仏教学部卒。〈宗内職歴〉一隅を照らす運動総本部次長、宗議会議員三期

■社会部長
源田俊昭(げんだ・しゅんしょう)
昭和十七年生まれ、六十三歳。権大僧正。栃木教区龍泉寺住職。大正大学仏教学部卒。〈宗内職歴〉教区議会議員、教区布教師会会長

■一隅を照らす運動総本部長
秋吉文隆(あきよし・ぶんりゅう)
昭和二十四年生まれ、五十六歳。僧正。九州東教区文殊仙寺住職。大正大学仏教学部卒。〈宗内職歴〉教区監事、宗議会議員四期

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 「小さいほうがいい」

 花は小さいほうがよがっぺ
 なんでだって?
 そりゃ きまってるがな
 萎(しぼ)んだ時のこと考えでみろや
 大(いげ)え花は 悲しみもまた大えからよ
 
 幸福(しあわせ)も やっぱり小粒(こつぶ)がよがっぺ
 なんでだって?
 そりゃ きまってるがな
 大え幸福 つかんでみろや
 有頂天(うちょうてん)になっちゃって
 おらの目ん玉さ 他人の涙が
 見えなく なっちゃうからよ

高野つる著「足(あしょ)んこの歌」 らくだ社刊より

 高野つるさんは、千葉県香取郡の徳星寺の一隅を照らす運動会員です。
 本紙の姉妹誌である「ともしび」の読者で、八十歳。この「足んこの歌」が第三詩集になるとお手紙をいただきました。
 「亡き母の七年、夫の十七年供養の足しになれば」と書いておられます。
 どの詩も心うたれる内容です。 
特に、この「小さいほうがいい」には、方言のなんともいえない味があります。
 「私が、小学四年生の時、ばあちゃんがいったこと」というサブタイトルがつけられているのに興味を引かれて、高野さんの経歴を見ました。そこにはこうありました。
 「八十年房総の地に生きる。父親の不時の出奔により、母と祖母の二人の力によって育てられた少女時代」。その中で、お祖母さんは、高野さんに、大きな幸福をつかんだら、他人の涙が見えなくなる、と言われたのです。
 全国の一隅を照らす運動の会員の皆様に読んで頂きたくて引用させていただきました。

鬼手仏心

蛍の光 窓の雪  前天台宗出版室長 工 藤 秀 和

 
 送別会の日に、この原稿を書いています。任期満了で、故郷の山形に帰ることになりました。このコラムを西郊前総長から引き継いで、十九回連載させていただきました。ご支援、ご愛読下さった読者の皆さまに心から御礼申し上げます。
 四年間天台宗務庁に勤務させて頂き、色々な思い出が出来ました。天台宗の広報紙として本紙の創刊に拘わったことは、有り難いことでした。
 「蛍の光 窓の雪」というところでしょうか、故郷の雪に思いをはせているところです。といっても、雪のようにこれで消えてしまうわけではありません。また、機会があれば、書かせて頂くこともあるでしょう。読者の皆さま、どこかで、お目にかかったら気楽に声をかけて下さい。
 出会いがあれば、別れがある、諸行無常の教えの通りですが、責任を果たしてホッとしていることも、また実感です。後に続く人のために井戸を掘ることが出来たのだとしたら、少し良い気持ちで自坊に帰ることができます。
 「今月は、いいこと書いてるじゃない」と言ってくれたお婆ちゃん、有り難う。「あれ、違うんじゃないの」と抗議された住職さん、もっと勉強しますから、お許しを。
 送別会を開いてくれた出版室の諸兄弟諸令嬢、頑張れ。文字離れ、活字離れといわれて、久しいけれど、真剣にやればまだ捨てたものじゃなかったことは、月々の反響から体で感じましたよ。
 次号からは、新しい出版室長が、鬼手仏心を担当します。より一層のご支援、ご愛読をお願いします。
 それでは「明けてぞ、今朝は別れゆく~」。

仏教の散歩道

「中道の精神」~仏教の散歩道お正月スペシャル~

 =中くらいが一番いい=

 子どものころは、指折り算えてお正月を待っていました。しかし、古希に近い年齢になったいまは、あの感激はありません。
 目出度さも中くらい也おらが春
 江戸後期の俳人の小林一茶はそんな句を詠んでいます。彼の心境がよくわかるこのごろです。
 ところで、ここで言われる「中くらい」ですが、これは仏教が教える、
 -中道の精神-
 ではないでしょうか。これを「たいしたことはない」といった意味に解釈すれば、きっと一茶は怒るだろうと思います。なにもかもが順調にいって、うはうは大喜びをする。現代日本人はそれを「めでたい」と考えていますが、それは欲深いのです。そんな考えでいると、結局はなにもかも失ってしまうはめになるでしょう。そうではないのだよ、「中くらい」がいちばんいいのだよ。一茶はそう言いたかったのだと思います。
 そして、それこそが仏教のいう「中道」です。
 「中道」というのは、極端を避けることです。たとえば大学生がパチンコばかりして勉強しないのも極端ですが、逆に体をこわすまでのガリ勉も極端です。そのような極端を避けて、ゆったりと楽しくするのが中道です。
 そこでわたしは、この中道という語を、
 -がんばるな!-
 といった言葉に置き換えてみたいと思います。というのは、日本人はいま、あまりにもがんばっているからです。がんばりにがんばって、もうへとへとになっています。自殺者の増加も、あまりにもがんばった結果だと思われます。日本人は仏教に学んで、もっとゆったりと楽しい毎日を送るようにすべきです。そうすれば、きっと笑顔を取り戻せますよ。街で見る日本人の顔に笑顔がありません。本当に暗い日本になってしまいました。残念でなりません。

 =がんばってはいけない=

 がんばるといった言葉、本当はあまりいい言葉ではありません。辞書(『大辞林』)を見ると、
 他の意見を押しのけて、強く自分の意見を押し通す。
 苦しさに負けずに努力する。
 ある場所に座を占めて、少しも動こうとしない。
 と、三つの意味があるとされています。
 まずですが、こんな話があります。イスラム教の開祖のムハンマド(日本ではマホメットと呼ばれていますが、ムハンマドが正しいのです)が、遠くにある山を近くに呼び寄せるといった奇蹟をやってのけると宣言しました。そして彼は山に向かって、「こっちに来い!」と三度命じました。だが、山は動きません。するとムハンマドは、山に向かって歩いて行ったのです。
 これが奇蹟です。遠くの山がこちらに来ないのであれば、こちらが近づいて行けばいいのです。わたしたちは、人間関係がうまくいかない相手に対して、相手のほうから俺に近づいて来い、と思っています。そして自分は動かないで、じっとがんばっているのです。それじゃあ、人間関係はよくなりません。ムハンマドのように、山が動かなければ自分が動けばいい。そうすると奇蹟が生じるのです。
 だから、がんばってはいけないのです。
 次にの「がんばる」です。われわれは自分の意見が絶対に正しい、他人の意見はまったくまちがっている、そう考えてがんばります。このがんばりもよくないですね。
 なぜなら、たいていの意見は灰色なんです。われわれは自分の意見は白色で百点、他人の意見は黒で零点と思っています。すなわち「白か黒か」といったふうに考えるわけですが、それはおかしいのです。自分の意見は灰色で七十八点、相手の意見も灰色で、七十五点、それぐらいの差しかないのです。そうであれば、自分の意見に固執してがんばる必要はありませんね。いや、がんばってはいけないのです。
 最後にの意味での「がんばる」です。
 わたしたちは苦しさに負けずにがんばることがいいことだと思っています。そういう意味で「がんばれ!がんばれ!」と激励するのです。
 でも、どうして苦しさに負けてはいけないのですか?!苦しさに負けずに闘うことが、それほどいいことなのでしょうか…?!
 たとえば、良心的な医者はがん患者に、がんと闘うな!と言っています。がんは本来、緩やかに進行する病気なんです。だが、患者ががんと闘えば、体力を消耗してがんが急速に進行し、患者は苦しむことになります。わたしたちはがんと闘うのではなしに、がんと仲良くしたほうがよさそうです。
 それはがんだけではありません。貧乏と闘って金持ちになろうとがんばるより、わたしはむしろ貧乏と仲良くしたほうがいいと思います。清貧を楽しんだ高僧は、日本の仏教史に数多くいるのです。
 おわかりになりますよね、仏教の中道の精神は、「がんばるな!」なんです。ゆったりと、のんびりと生きましょうよ。笑顔を取り戻しましょう。わたしはそのように提案させていただきます。 

カット・伊藤 梓

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