天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第6号

平和への願いひとつに 比叡山宗教サミット16周年
- ユダヤとイスラム -
 第十六回比叡山宗教サミットが、今年も八月四日に開催され、集まった約五百人の宗教者と一般市民が世界平和の実現を祈念した。
 昨年は十五周年として、特にイスラムの宗教指導者を招聘し、9・11テロによって世界に蔓延した「イスラムへの誤解と偏見」を払拭し、共に世界平和を目指すことが確認された。しかし、その後もイラク戦争にみられるように憎悪の対立は収まっていない。
 ハイテクの近代兵器に対抗してローテクの自爆テロという「戦争」は、泥沼化している。宗教の対立や文明の衝突と識者は分析するが、世界宗教と呼ばれるどの宗教宗派の神仏も殺人をはっきりと否定している。それなのに、今、世界は互いの神に「相手の殲滅」を祈願しているようにさえ見える。
 今回のサミットでは、特に前イスラエル首長ラビのイスラエル・メイール・ラオ師とパレスチナアラファト議長宗教顧問のシェイク・タラル・シデル師を招き、平和の祈りと対話を行った。現在の中東情勢を考えるとき、ユダヤ教の代表者とイスラム教の代表者との出会いと対話は、まさに画期的なことである。
 そして、更に樋口美作日本ムスリム協会名誉会長から平和についての提言を聞いた。普段では、あまり聞くことのないイスラム側からの提言である。

<b>樋口美作日本ムスリム協会名誉会長提言(要旨)</b>
<hr size=1> 私達ムスリムの共通の願いは、来世において楽園が約束される事でありこれが究極の平和であります。その為にこの現世をいかに生きるかが大きな課題である。クルアーンの教えに基づくアッラーと自分との直接的な関係の中で、また他人と自分との社会的な関係の中で、アッラーへの絶対的帰依と、人類の社会や文化の多様性を容認し、互いに尊重し合う事は、平和的共存を促す基本的な教えであり正義であると信ずる。
 したがって、今日とかく論議をかもしているグローバライゼーションの問題にしても、もしそれが多様性を否定し、単に一国による一極集中的考えを主張するものであるなら、容認し難いものと成るだろう。
 今や両極の過激的な人達の主張する神の名による独り善がりの正義によって、平和の大義が侵されつつあると懸念されている。
 天台宗開祖の言葉に「宝とは道心ある人」とある。道心とは、社会の平和、人類の幸福のために社会の一隅に(どこにでも)あって尽力すること、であると説かれている。
実は、私はこの言葉を正にイスラームの言う「ジハード」すなわち、刻苦勉励すると言う本義に共通する教えであると思う。半世紀の間、未解決のまま放置されている中東紛争は、パレスチナの人達が起こした紛争ではなかった。私が中東諸国に在住していた時、よく耳にした彼等の言葉は「俺達は何も悪い事はしていない、どの宗教も民族も皆仲良く暮らしていたんだ」と言う事であった。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 常懐悲感 心遂醒悟

法 華 経

 「じょうえひかん しんすいしょうご」と読みます。訓読みでは、「常に悲感をいだいて、心ついに醒悟す」であります。

 この言葉は、法華経第十六章の『如来寿量品』の中にあります。
 有名な良医治子の誓えですが「医師である父が不在の間に、毒を飲んで苦しむ子どもたちに、帰宅した父は薬を調合する。飲んだ子は全快したが、飲まない子どものために父は旅に出て、旅先から父は死んだと知らせる。病児はそれを聞いて悲しみによって心が醒め、薬を飲んで治る」という話です。
 悲しみを抱いていると、心は遂に醒め悟りにいたるとは、違和感をもたれる方もあるかと思います。悲しいことなんか、ない方がよいと思うからでしょう。
 しかし、毎日パーティーで浮かれた生活をしていても、それで真の人生を生きていることにはなりません。悲しいことは、誰でもあります。人に言えれば少しは楽になるのでしょうが、誰にも言えない悲しみもあります。
 そのことから逃げずに、ずっと耐え、かみしめていると、ある日、心は悲しみを乗り越えてゆきます。その風景は、冬の朝のように冷たく冴え々々としていますが、その中に朝日が差し込むようでもあります。

鬼手仏心

大喝痛棒   天台宗宗務総長 西郊 良光

 最近、今東光大僧正のことが、しきりに思い出されてならない。中尊寺の貫首であり、国会議員にもなられたが、世間では毒舌和尚という異名で知られた。
 「自首するより死んだほうがいい。悪いことは言わん。死にな。二十三歳にもなってそんな電話かけたりするバカなら、自首するより死んだほうがいい。自首すりやぁ恥をかくからね。切に自殺をお勧めいたします」。
 ある人生相談の回答である。僧侶なのに、なんと乱暴なと、憤慨するむきがあるかもしれない。が、ちょっと待ってもらいたい。この相談は、好きになった中学生の女の子の家に、毎日イタズラ電話をかけてしまうという二十三歳の男からのものである。もちろん、今大僧正の本音は「死ね」にあるのではない。そんなことでどうするか、人生を無駄にするな、しっかりせい!と大喝をくらわせているのである。仏法というのは、中道を説くが、穏やかで優しいばかりのものではない。どうしようもない輩には、時にはこれぐらいのことを言って目を覚まさせなくてはならないのである。不動明王の憤怒の相が浮かぶ。
 それにしても、この相談者は自分のどうしようもなさを自覚して「自首しようか」と相談しているのだから、まだ救いがあるというべきか。三十年前のことである。一々例は挙げないが、その時代に比べて青少年の荒廃と世相の混乱はますますひどい。近頃の世相を見るなら、今大僧正はどのような大喝を落とされるだろうか。

ページの先頭へ戻る