天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第27号

『天台の行と祈り』を開催 -戦没者慰霊の採燈護摩も-
  7月14日広島で

 七月十四日(木)、広島県において「天台の行と祈り」と題した記念講演会と戦没者慰霊・世界平和の祈りが行われる。

 天台宗が展開している開宗千二百年慶讃大法会の記念諸行事の一環として開催されるものだが、今年は終戦六十周年を迎えるところから、戦没者慰霊の採燈護摩供法要が奉修されることとなった。
 沖縄、鹿児島、広島の三県は天台宗の寺院が少なく、開宗千二百年を機に三県特別布教事業に取り組んでいる。今回は、広島県と近郊県の方々に比叡山と天台宗を身近に感じてもらおうという意味も含まれている。
 同日は、午前十時三十分から、広島市平和記念公園広島国際会議場フェニックスホールにて、千日回峰行者として全国的にも有名な酒井雄哉大阿闍梨による講演会が一時間行われ、引き続いて午後一時三十分から原爆供養塔前広場で「戦没者慰霊・世界平和の祈り」が修される。
 戦没者慰霊・世界平和の祈りは、天台座主の代理として京都毘沙門堂門跡の森川宏映門主が大導師、酒井大阿闍梨が大先達をつとめ、また北嶺回峰行者、天台修験者多数の出仕によって採燈護摩供法要が厳修される。

-祈願と回向も受付- 
 
 主催する開宗千二百年慶讃大法会事務局では、講演会場の席数に限りがあるため、六月中旬に広島県に配布する専用用紙によって参加を受け付け、先着順で入場整理券を送付するとしている。
 なお、護摩木による祈願と、経木塔婆による回向の受付(両方で千円)も同時に受け付ける。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 顔ちゅうものは、ほんとによう見えるものです。顔は大事にせにゃいかん。
 顔を大事にするということは、心を大事にすることです。「顔とは心なり」とも言えるし、「心とは顔なり」とも言えるのです。

「大愚のすすめ」 山田惠諦著・大和出版刊

 レンタルビデオの普及によって、昭和に制作された日本映画を手軽に観ることが出来るようになりました。感じるのは「昔の日本人の男というのは、こんなにいい顔をしていたんだ」ということです。
 二枚目だけではありません。敵役や、脇役や、端役にいたるまで、実に味のある、ほれぼれするような顔をしています。
 日本人に、カネはなくても信念があり、決断があり、自信があった時代の顔です。責任をもって、自分を貫き通すことが要求された時代を生きると、人は見事な顔になると思います。その人が歩いてきた人生が顔になるからです。今の日本の若い人を見ると、考えもファッションも同一で、顔も同じように見えます。
 長年、接客業に携わってきた人と話しました。人の顔を見れば大抵、その人の職業や性格も分かるといいます。また、久し振りで会った人の顔が悪くなっていたら、原因まで、おおよそ見当がつくそうです。
 彼は「近頃、濁りのない、ゆったりとした心地を感じさせる顔に出会いませんね」と嘆いていました。

鬼手仏心

『風太君』  天台宗出版室長 工藤 秀和

 
 レッサー・パンダの「風太君」が大人気です。直立した姿が、とてもかわいい。
 しかし、考えてみれば千葉市動物公園を訪れた人は、風太君の直立姿を見ているはずで、このように全国区の人気者になったのは、やはりマスコミに写真が掲載されたことが理由でしょう。
 あらためて、マスコミの大きさを感じます。
 同時に、一枚の写真が持つ影響力について考えました。
 今、マスコミの世界は「動画」が中心です。インターネットも静止画像から、動画に切り替わろうとしています。その臨場感と情報量には、圧倒的な差があります。大事故や、災害があれば、その被害者の中に誰かがビデオを持っており、その「素人さん」が撮った映像がテレビで流れるほど日本は動画社会です。
 しかし、優れた一枚の写真は、見る者の想像力を喚起します。
 風太君の立ち姿もまた、見る人の想像力に訴える「なにものか」があったのだと思います。大げさにいえば、それは今の「時代」とでもいうべきものでしょう。
 凶悪犯罪や大事故が続き、何ともやるせなく、ギスギスとした時代に、ほっとする一コマが、人々の心を捉えたのだと思います。人は、いつでも温もりを求めているものなのです。人と動物のふれあいでお互いの幸せをはかることを「ヒューマン・アニマル・ボンド」というそうです。  家族やペットの大事な写真は、液晶画面ではなく、やはりプリントして持っていたいと思うのは、私だけでしょうか。
 なお、風太君は、フラッシュの光が大嫌いだそうです。

仏教の散歩道

おまかせする

 古代インドのバラモン教という宗教は多神教です。学者の研究によると、そこには三千三百三十九柱の神々がいるようです。
 ところが、この多神教、ちょっと変った多神教です。
 というのは、普通の多神教は日本の神道のアマテラスオオミカミ(天照大神)やギリシャ神話のゼウスのように最高神がいて、他の神々はその配下になっています。しかし、バラモン教には最高神がいません。いろんな神がその場、その場に応じて最高神の地位につくのです。そこである宗教学者は、このバラモン教を多神教ではなく、
 ―交替(こうたい)神教―
 と命名しました。最高神がその都度、交替するからです。
 これは、このように考えるとわかると思います。
 わたしたちはいろんな欲望を持っています。そして、その欲望をさまざまな神にぶつけます。たとえば、Aの神には、私を金持ちにしてくださいと頼みます。Bの神には、わが子を頭のよい子にしてほしいと願います。Cの神には、妻のがんを治してほしいと祈る。その他、いろいろありますが、三つぐらいにしておきます。
 さて、Aの神はあなたに大金を与えてくれました。そのために、あなたは浮気をするはめになるかもしれません。そして家族を滅茶滅茶にします。Bの神はあなたの息子を優等生にしてくれた。それはいいのですが、優秀な息子は海外に行き、日本に帰って来ない。あなたは淋しくなります。妻のがんをCの神が治してくれた。だが、そのとき使用された抗がん剤の副作用で、妻の頭髪がすべて抜け落ち、失望した妻は自殺するかもしれません。三柱の神がそれぞれあなたの願いをききいてくれたのですが、その結果、あなたはかえって不幸になる可能性があります。
 ちょっと考えるとわかることですが、メリット(利点)とデメリット(欠点)は一枚のコインの裏表のようなものです。夫婦があくせく働いて一戸建ての住宅を建てることができたときメリットの裏には、過労死があったり、鍵っ子にされた子どもが淋しさのあまり非行に走る可能性もあります。
 では、どうすればいいのでしょうか?
 多数の神にあれこれお願いすることをやめて、一つの神に、
 ―おまかせする―
 といった態度のほうがいいかもしれません。そうすると、まかされた神が、「あまり大金を得ようとするな! ほどほどにしておけ」と、あなたにアドヴァイス(忠告)してくださるかもしれないのです。それがバラモン教の「交替神教」の考え方です。
 ともかく、あなたは一つの神におまかせしたのだから、その神が与えて下さるもので満足すべきです。どんな結果になっても、文句は言わないこと。それがおまかせしたことなんですよ。

カット・伊藤 梓

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