天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第212号

杜多内局 最後の議会 -第147回通常宗議会-

 第147回通常宗議会が10月13、14日に開かれ、杜多道雄宗務総長は、任期を約半年前倒しで辞職することを表明。10月2日付けで森川宏映天台座主猊下に辞任を上申したことを報告した。新型コロナウイルスの影響に鑑み、令和2年度に限り寺院教会納金の減額に伴う令和2年度補正予算を上程し、平成31年度決算と合わせて可決され全日程を終えた。

 開会式で森川座主猊下(杜多宗務総長代読)は、新型コロナウイルスの世界的流行により、新たな分断線が引かれることを憂慮され「このたびの災禍が過ぎた後、忘己利他の教えが、私たちの生きるべき指標になりうる」と教示され、慈悲心を育みあう社会の構築を呼びかけられた。

 その新型コロナウイルスの流行で社会全体が経済危機を迎えていることから、寺院の経営基盤への不安は増し、先が見通せない状況が続いている。そのため内局は、令和2年度の本山納金のうち寺院教会納金の20%を減額した令和2年度通常会計歳入歳出補正予算案を組み、歳入歳出ともに1億1220万円の減額補正予算案を上程した。杜多宗務総長は「持続可能な宗団を目指して財政基盤の安定性を確保するためにも予算の見直しを避けては通れない。任期を前倒した辞職も、新内局の手でコロナ後を見据えた新視点で次年度予算案を策定していただきたいという思いがあった」と述べた。

 また令和3年度実施を目指してきた寺院教会収入額申告についても、コロナ禍の影響から2年延期を決めた。宗務所長会からの要望や、寺院教会収入額基準審議会から「実施時期延期が妥当」との答申を得ていた。
 明年迎える伝教大師一千二百年大遠忌に向けた諸行事も延期や中止措置が取られている。こうした状況を勘案し、祖師先徳鑽仰大法会期間を、令和5年3月31日まで延長する。それに伴い、会計年度も変更し、祖師先徳鑽仰大法会費特別会計規程の一部改正案が提出された。

 令和3年3月の任期を待たずに辞任することを決めた杜多宗務総長にとり、今宗議会が最後となった。杜多総長は挨拶で、「伝教大師一千二百年大遠忌御祥当を控え、さらにコロナ禍の影響で延期とした教区法要、『不滅の法灯全国行脚』が来春よりスタートする予定だったことから、次期内局の宗務運営に出来る限り支障が及ばぬようにとの思いで半年前倒ししての辞任を決断した」と説明し議員らに理解を求めた。
 提出案件のうち、平成31年度通常会計決算は歳入額11億7598万8714円。歳出決算額は10億3611万9717円となった。その他、上程された議案および報告案件も全て可決された。

 代表質問には、道興会の村上圓竜議員、新成会の栁澤最伸議員が登壇した。
 なお、開会式は議場で法楽を営んだが、新型コロナウイルス感染拡大防止から、本会議は宗務庁二階の大会議室で開かれた。会期中は、議員、役職員全員の消毒とマスク着用を義務付け、質問および答弁者は、口元が見えるマウスガードを着用して登壇した。会場は換気を心がけ、ソーシャルディスタンスが保てるよう議席間隔を空けるなど万全の対応がとられた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

人間というものは、不幸のどんぞこにいる時でも、たいそう見栄を張ることがあるものです。

アンデルセン

 人は、自分ひとりだけで生きていくことがむずかしいものです。というよりも、人間は社会をつくり、その共同体の中で生きていくことがそもそもの必要条件でしょう。

 例えば遠い過去の狩猟時代、他の動物に比べて個体の強さの面で劣る人間としては、集団の連携で狩りをしなければなりません。その時、必然的に他人とのつながりが重要になってきます。ここに自分と他人との切っても切れない関係ができてきます。人間の歴史はこの関係によって紡がれてきました。

 するとそこでは、他人の眼、他人の評価がどうしても気になってくるものです。「どう思われているのか」という思いは、常に心の奥底に潜んでいます。
 ですから、不幸な境遇に陥ったときも、この心理から逃れられません。自分自身では、惨めな状況に困憊(こんぱい)していても、素直に認めることができないことがあります。それは、他人の「眼」があるからでしょう。「ああ、こんな悲惨でどうしようもない境遇にある私というものは、他の人の眼にはどう映っているのか」という思いがよぎるのです。

 すると、なんとかしてその惨めさを隠そうとしてしまいます。たとえば、不幸とまではいかない状況ですが、往来で滑って転んだ時のことを考えてみてください。転んだ時の痛みと同時に「他人に見られた」という恥ずかしい思いから、精一杯「何でもないですよ」という素振りをしてしまいます。不幸にあるときも同じです。実際は打ちひしがれていても、他人にそのままの姿は見せません。

 ですが、誰しも素直に自分の失態や惨めな有様をさらけ出すことができれば、どんなにか楽でしょう。それができたときには、その不幸な状況から抜け出しやすくなるかも知れません。周りの他人も手を差し伸べてくれるでしょうから。

 しかしながら、「他人の眼」という意識からは中々逃れにくいのが、現実でしょうか。

鬼手仏心

他者への思いやり

 コロナ禍ですっかりと日常が変わってしまい、いつも心のどこかに重いしこりのような不安があります。それに加えて災害の多い我が国ですから、その防災対策と共に新型コロナウイルスに対する備えもしなければなりません。大きな負担となり、関係者にとってプレッシャーは並大抵ではないでしょう。

 我がふるさと東北を襲ったあの東日本大震災の時に、このコロナ禍が起こっていたらと思うと、ぞっとします。あの大被害だけでも心が打ち砕かれたのに、その上、新型コロナウイルス感染という災厄に襲われることを想像するだけでも身震いがします。
 この新型コロナウイルス感染問題が起きた時、思い出した事があります。

 東日本大震災で福島の原発が被災し、近隣住民の方々が他県に避難したとき「放射能は帰れ」など心ない言葉が投げかけられたことがありました。災害で打ちひしがれていた被災者の心の内を思うと、非常に悲しかったことを思い出します。

 残念ながら、こうした差別行為が今回のコロナ禍でも出てきました。感染者に非があるかのような言動です。震災被災者も新型コロナウイルス感染者も被害者なのに、加害者のごとく差別されることは全く認められることではないのです。残念なことです。

 一方で、人間としてうれしいこともあります。大きな災害が起きたとき、全国的に支援の輪が広がることです。遠い地域から駆けつけて下さるボランティアの方々には頭の下がる思いです。まさに利他の行為です。コロナ禍で活動も縮小していますが、どんな状況になろうとも、他者への思いやりの心が第一であることを痛切に感じる今日この頃です。 

ページの先頭へ戻る