天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第197号

「天皇陛下御即位奉祝法要」を奉修-11月5日、比叡山延暦寺大講堂にて-

桓武天皇陵の参拝、一隅を照らす運動50周年記念式典も

 天皇陛下が国内外に御即位を宣明される「即位礼正殿の儀」に10月22日臨まれることから、天台宗では11月5日に「天皇陛下御即位奉祝法要」を森川宏映天台座主猊下を大導師に、比叡山延暦寺大講堂で奉修する。また同日は、桓武天皇陵への参拝、一隅を照らす運動発足50周年記念式典も行われる。

 杜多道雄宗務総長は「天台宗を挙げて御即位を寿ぎ、開宗を認めていただいた桓武天皇に報謝し、宗祖伝教大師の御誓願を再確認する機会にしたい」と話している。
宗祖伝教大師最澄さまは、より深く天台教学を学びたいと桓武天皇に願い出られた後に入唐求法され、多くの経典や法具を携えて帰国。『法華経』に基づいた「すべての人が仏に成れる」という天台の教えを日本に弘めるため、天台法華宗の設立許可を願い出て、延暦25年(806)1月26日に年分度者2名認可の官符が発せられた。天台宗では、この日を開宗記念日としている。
 時の桓武天皇は、平安京遷都と東北地方平定に伴い日本全土を統一し、平和な世作りを目指していた。国や人びとを救済する菩薩僧の育成に尽力された伝教大師の御誓願は、桓武天皇にとって新時代を築く支柱であったとされる。天台宗が「桓武天皇御願の宗」とも言われる由縁である。このように皇室と深い御縁で結ばれてきた経緯から、杜多内局は奉祝法要の奉修を発願した。
 また、伝教大師のご精神を現代に活かすために始められた「一隅を照らす運動」が50周年を迎える。それを機に、令和の新時代へ運動理念を再確認し、今後につなげていきたいと考えている。

 11月5日は、天台宗内局、宗議会、宗務所長会の代表者らが京都市伏見区の桓武天皇陵を参拝し法楽を捧げる。その後、11時より延暦寺大講堂で、森川宏映座主猊下を大導師に、奉祝法要を厳修する。
 宗議会と宗務所長会の代表者らが出仕予定で、宗と延暦寺内局員、宗内諸大徳らが随喜し、雅楽と奉祝舞で天皇陛下の御即位を祝す。
 また午後からは、一隅を照らす運動発足50周年記念式典があり、運動の更なる発展を決意し、次の50年、百年へと続く時代の幕開けを告げる。
 法要に向けて杜多宗務総長は「令和の新時代を迎えたが、今なお人の命が簡単に奪われるなど殺伐としている。『生命』、『共生』、『奉仕』という実践目標を掲げている一隅を照らす運動は、いまだからこそ国を救う、精神的支柱になりえるだろう。それを我々自身も再確認する意義が、この法要にあると思う。新しい天皇陛下のもとで、我が国が伝教大師の浄仏国土建設の御誓願が実現されるような世の中にするために、我々も、天台宗の教えを再確認し、新たな活動へのきっかけにしたい。『もし伝教大師が今おられたら、この世の中をどうご覧になられるだろう』と考えながら、布教や行動へ繋げる機会にできれば」と願いを語っている。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

民主主義は最悪の政治形態らしい。
ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。

チャーチル

 民主主義国においては、主権はその国に暮らす人々にあります。
 主権在民ですね。すると、考え方も多数あり、少数意見にも配慮しなければなりません。またその意志を尊重するために様々な手続きを経なければなりません。
 現代は以前に比べ利害関係も複雑化し、その調整は一筋縄ではいかない時代となっています。問題が提起されて合法的に解決策が決まるまでに相当な時間と手続きが要求されます。
 しかし、そんなまどろっこしい事態に嫌気がさしたのか、問題解決への答えにスピードを要求する傾向が人々の間に増えてきました。そうなると、たとえ乱暴でも手っ取り早く単純明快な解決方法が支持されてきます。
 最近の世界の国々の政治状況をみると、覇権主義とか一国ファーストを信条とするかなり独裁者モードの指導者が目立っています。その背景には、民主主義に倦(う)んでいる大衆の心理が大きく影を落としている気がします。
 世界中で強力な支配力のある指導者が望まれ、その指導者の下、強引な政策が実行されると、経済的、政治的に対立する人々の間で衝突が勃発します。現在の世界をみるとよく分かります。
 今、世界は、民主主義の原理を存続させるか否かが試されている時代かも知れません。難民問題などでみられるように、経済的な利害を含んだ問題に対してどのような政治的信条を持って臨むのか、民主主義の理念が問われている気がします。
 「歴史は繰り返す」といわれますが、これから先、どのような政治形態が待っているのでしょうか。
 そして、その体制下では「民主主義」はどのような評価となっているのでしょうか。 

鬼手仏心

本年をもって年始の挨拶は…

 ムシムシと暑~い日が続いています、と言いながら時節外れの話です。
 【来年から賀状でのご挨拶は失礼させていただきます】
 元旦に受け取った年賀状に添えられていた一文。去年初めて一通いただいて、今年は何と三通!、時期の違いや長短はありますが、七十余年生きてきて、たいへんお世話になり親しくさせていただいた知人からのものでした。
 とりあえずの無事・息災(?)が確認でき安堵しましたが、反面、なんとも言えない寂しい気持ちにもなりました。
 ここ数年、年賀状の総数が減少し続けているらしいことは耳にしておりましたが「こんなところにも一因があるのかなあ」とも思いました。近年は差出人・宛先も含め、すべてが印刷活字のものが多く、いささか味気ない感がありました(他人のことは言えません。私も同様です)。でも、一言でも自筆の添え文があると「ほっ!」としたものです。
 さて、年賀状は祝賀のためだけのものではないと思っています。その前後に思いがけなくいただく欠礼はがき。ご家族内にあった悲しみ、時にはご本人の訃報を知り、思わず手を合わせることもあります。しだいに細くなりつつも、年に一度の賀状のやりとりで、糸は繋いでおきたい方はたくさんいます。賀状が途切れるとなると、はて、今後その方やご家族の消息をどうやって知ったらいいのだろう、途方に暮れる戸惑いと寂しさが心をよぎりました。これは私だけでしょうか。
 「一期一会」「会うは別れの始まり」等々いろいろ言われます。その通りであろうと思いますが、いつの日か訪れる私のともしびの途絶えをどうやって知ってもらったらいいのだろう。
 【年賀状挨拶欠礼】こちらからもしなければいけないのだろうか?
 どなたか教えてくれませんか。

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