天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第185号

「天台宗平和祈念法要」を厳修
一隅を照らす運動 第14回「戦歿者慰霊・世界平和の祈り」

岡山・四国・山陰の三教区合同で、一隅を照らす運動「第14回戦歿者慰霊・世界平和の祈り『天台宗平和祈念法要』」が7月14日、広島平和記念公園内の原爆供養塔前にて営まれた。法要には三教区有志住職並びに岡山教区第6部の檀信徒ら約80名も参列、先の大戦戦歿者に哀悼の意を捧げるとともに、世界の恒久平和を祈った。また、同時に直前に起きた西日本豪雨災害の犠牲者にも鎮魂の祈りを捧げた。

 同法要は、開宗1200年慶讃大法会記念事業として行われた三県(広島・鹿児島・沖縄)特別布教の一環として、平成17年に広島で執り行われ、今年で第14回目を迎えた。
 先の大戦の犠牲者や原爆犠牲者の慰霊とともに、悲惨な戦争体験を風化させず、平和の大切さを後世に伝えるために毎年営まれている。
 同日の法要は、午後2時より、木村俊雅四国教区宗務所長を導師に、見上知正山陰教区宗務所長、永宗幸信岡山教区宗務所長、三教区有志住職らの出仕で厳かに執り行われた。
 また、水尾寂芳延暦寺一山禪定院住職、森定慈仁一隅を照らす運動総本部長、葉上観行宗議会議員(岡山)、大西栄光宗議会議員(四国)らが来賓として参列した。
 法要を終えるにあたり、森定一隅を照らす運動総本部長が、戦争を知らない世代が大半となり、戦争の悲惨さが伝えられにくくなったことを踏まえ、原爆犠牲者への回向と世界平和を希求する同法要を、今後とも絶やすことなく続けることの意義を強く訴える挨拶を行った。
 また、謝辞にたった永宗岡山教区宗務所長は「身元不明や引き取り手のない遺骨を祀る『原爆供養塔』を知っていただく意味でも、この法要を家族や縁ある方々などに広く知っていただき、多くの人々に参列してもらえるよう行動していきたい」と同法要への思いを述べた。
 戦後も70数年を経て、戦禍の悲惨さが忘れられていく風潮にある今、三教区では戦争と原爆の犠牲者の回向と世界平和を祈る同法要を、今後も粘り強く続けていく意向である。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

日本人は均一性を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫である。

司馬遼太郎『街道を行く』

 日本人の特徴で、昔から云われるのが「集団行動性」です。よく言えば「協調性がある」ということになりますが、悪く言うと「長いものには巻かれろ」ということになります。
 たとえ個人としての価値判断と異なっていても、周りの意見や行動に同調するのです。
 アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、終戦直後に話題となった著書『菊と刀』で「欧米では個人が神に向き合うが、日本人は自己の属する集団に恥をかかせないように己を規制する」と分析しました。
 欧米の一神教の国では、個人が神に向き合いますから、良心を意識した「罪の文化」があり、そこに自己の行動がでます。
 一方、日本人は、常に他者の思惑を意識し、集団で行動する特性があるようで、自分の属する集団に恥をかかせないように自己規制します。そして、他のメンバーには同調圧力をかけます。つまり、日本人は「常に他人に依拠する」という行動特性があるようです。
 ずっと話題となっている森友学園、加計学園問題でも、財務省や内閣府が手続き上かなり不当と思われる便宜を図ったとされますが、これらの問題も「自己の属する組織・集団」への忠誠精神からの対応が明らかにみられます。
 また、日大アメリカンフットボール部問題でも、日大という組織の対処の仕方に同様の構図があります。組織からの服従を強いる圧力と、組織への盲目的な追従(ついじゅう)というパターンが浮き上がってきます。
 自己の存立の本拠をどこに据えるか、「個」か「集団」か。これはまさに日本人にとっての大きな命題でしょう。
 個人や少数派が尊重されない社会は、真の意味で「真っ当な社会」とはいえないのですから。

鬼手仏心

「子どもになりたい」  甘井亮淳

自坊の幼稚園で、子どもたちと接していると、時には、子どもの発想にドキッとすることがあります。
 気分が沈んでいたり、イライラしたりしている時には、子どもたちの素晴らしい言葉を耳にして、パッと心が明るくなったりします。
 どれほど意味を含めて言っているのか、分からないだけに、ほとんど哲学的としか言いようのない言葉にも出会ってビックリするときもあります。
 自分自身の経験ではありませんが、こんな話を聞いたことがあります。
 それは、大人から「人間はいつ大人になるんだろうね」と尋ねられた時に小さな子が「それは、子どもになりたい、と思ったときだよ」と答えたというのです。
 これは、なんとも含蓄(がんちく)の深い言葉ですね。
 意味を探ってみますと、この子は、「いつか夢が破れて挫折(ざせつ)する時が来る」あるいは「成長すると辛(つら)い経験に出会うだろう」と予感し、「そんなことのない子ども時代を再び求めるようになるのだ」と言っているのか、と、大人としては考えさせられてしまうのです。
 言った当の子どもはそんなに深い意味を込めたつもりないかもしれません。しかし、言われた大人には衝撃的な言葉になります。
 日々、全国の保育園や幼稚園、あるいは、託児所などで、子どもたちの素晴らしい言葉が沢山うまれていることでしょう。
 やがて、その子たちが楽しいこと、悲しいことなどいろんな経験を経て大人になっていくのです。
 そして大人になった時、こう言うかも知れませんね。
 「ああ、子どもになりたいな」と。

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