天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第22号

1.17 阪神淡路大震災10年を迎えて
-私たちの誓いを灯に-

 今月十七日に、一瞬にして六千四百人以上の死者と四万人を超える負傷者を出した阪神淡路大震災から、十年目を迎える。あの激しいショックは、しだいに記憶から薄れ、風化していくように見えるが、体験した人々は決して、あの日のことを忘れない。天台宗でも、本堂全壊など甚大な被害を受けた寺院が多かった。そして、震災はあの日から、救援活動を行った青年僧に大きな影響をもたらした。

 阪神淡路大震災は「ボランティア元年」とも呼ばれる。
 天台宗でも、その時、初めて青年僧侶達が被災地に入り、ボランティア活動を行った。寺院にあれば「主役」として法事を執り行い、衆生に向かう僧侶が、ボランティアの場では一般と全く同じく「名も無きひとり」になって救援に、炊き出しに従事した。何が出来るかと悩むひまはなかった。出来ることをした。もちろん亡くなった人々の鎮魂もおこなったが、仕事は圧倒的に物資の運搬や、雑役が多かった。
 そこは、生の人間感情が炸裂する修羅場であった。「困っている人々に施すのだから、感謝されるはず」などという甘い考えは、吹っ飛ばされた。その事は、やがて日々の修行の中で、自分の行動と理念を厳しく問い直すことになる。
 一方では放心したように無感動な女性がいる、怯えきっている幼児がいる。そして、合掌して涙を流す人がいた。手を握って感謝する人がいた。
 良くも悪くも虚飾をはぎ取った「人」と「人」が遠慮容赦なく裸でぶつかり合った。
「理屈をあれこれ言うよりも、困っている人々の中に入っていくことが大事。その勇気をもらった」(兵庫教区・住職)。
 今、十年を迎えて、被災地は一応の復旧をみ、静かな生活が戻っている。
 阪神淡路大震災から九年が過ぎた。これまで、そして、これからー。
 「日常は、生者と死者は整然と区別されている。だが、そこは生と死が混在した場所だった。僧侶は死者の葬儀と鎮魂が第一の使命と世間では思われている。それは、その通り。しかし、ギリギリのラインで生きている人たち、その人たちの側に寄り添って働くこと、それが天台宗僧侶、宗教に携わるものの使命だと痛感させられた」(京都教区・住職)
 阪神淡路大震災は、私たちの胸の中に生き続ける。 

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 ひとの邪曲(よこしま)を見るなかれ。
 ひとのこれをなし、かれをなさざるを見るなかれ。
 ただおのれの何をなし、何をなさざりしを想うべし。

法句経・五〇

 人間、誰しも他人のことはよく見えます。他人の欠点や悪い面は容易く見つけることが出来ます。反面、自分を見る眼は甘く、他人から悪い部分を指摘されようものなら、そんなことはない、と猛反駁します。我を離れて自分を客観的に見ることはなかなか難しいものです。その心の根底にはやはり、他人の評価を気にする自分というものが根強く在るからでしょう。
 自分に自信がないから、他人の指摘が受け入れられず、その不安が他人への悪口、そねみになるのだと思います。自分に自信を持てるなら、他人からの批判を素直に認め、悪い所を直すことに躊躇しません。そして、常に己は何をし、何が足らなかったのかという反省に立って行動できるようになります。
 「一隅を照らす」とは、このような心から始まるのだと思います。一年の始まりにあたって、かみしめたい言葉です。

鬼手仏心

お雑煮  天台宗出版室長 工藤 秀和

 
 寺に暮らすと、大晦日や元旦をゆっくりと過ごすということは、まずない。
 除夜の鐘のある寺院はもちろん、初詣をすませた人々が、払暁から一年の幸せを願って参拝されるからである。また、修正会という元日の法要儀式もある。
 年越しそばもそこそこに、数時間の仮眠で、年始ご挨拶を受ける住職さんも多い。  もちろん、奥さんをはじめ寺族は、準備とお手伝いで、一年に数度という大忙しとなり、世間とは全く逆のお正月風景が展開されるのである。ゆえに、家族でゆっくりと新年気分を味わうのは、どうしても二日から三日になってしまう。
 それで、忙しい時の食べ物を考えていたら、船場汁のことを思い出した。
 船場汁というのは、大阪のすまし汁のことである。熱い汁の中に、大根の千切りと鯖の切り身が入っている。昔は、丁稚さんがよく食べたファースト・フードだ。遅くまで掛け取りに走り回る人々が、サッと食べて暖を取るためによく売れたという。
 私はこれに生姜の絞り汁を落として、ちょっと贅沢にしたりしている。贅沢といっても知れているが、寒い日などは、酒のアテにちょうどいい。これに餅を入れれば、雑煮にいいかなと考えたが、やはり違うようだ。
 雑煮には、各人の故郷と文化が現れるとは、よく言われることだ。丸餅、角餅、焼いたの、煮たの、すまし汁、白みそ、等々。共通するのは、誰もが自分の雑煮が一番と思っていることである。それは、子どもの時の正月の思い出と密接に絡まっているから、宗旨替えは難しい。難しいが、不可能ではない。現に、私は東京の生まれであるが、山形に来て、今では、家人の作る雑煮を「こんなに旨い雑煮はない」と思って食べているのである。

仏教の散歩道

-お正月スペシャル- すべての人に存在価値がある 

  『引きこもりの悩み』

 「わたしは大学に入るには入ったのですが、最後まで続けることができずに、ついに引きこもりになってしまいました。どうしたらいいでしょうか……?」
 北海道の旭川で開かれた仏教講演会のあとで、二十歳前後の若者が講師控室にやって来て、そんな質問をしました。このような質問にはタイミングが大事です。単刀直入に答えてあげないと、質問者のもやもやは晴れません。質問者は、なにも「正解」を求めているのではありません。ある意味で「正解」はわかっているのですが、ただもやもやと悩んでいる。そして、そのもやもやを晴らしてほしいのです。
 だからわたしは、すかさずこう答えました。
 「あなたは、引きこもっていればいいのですよ」
 すると、その瞬間、若者の顔が輝いたのです。安堵の表情になりました。
 彼はわたしの考えを聞く気になりました。そこでわたしは、次のような話を彼にしてあげました。
   *     *
 わたしたちは子どものころから、
 -世の中の役に立つ人間になれ!-
 と教えられてきました。耳に胼胝(たこ)が出来るほど、そんな言葉を聞かされてきました。
 だが、世の中の役に立つ人間って、どういう人ですか?戦争中であれば、敵兵を一人でも多く殺せる人間が世の中の役に立ちます。つまり、世の中の役に立つ人間になれと言うことは、人殺しになれと言うことになります。
 現在の日本においては、経済活動を活発にやる人間が世の中に役に立つ人です。けれども、経済活動が活発になれば、地球の資源を浪費することになります。そうすると資源の涸渇を招き、エネルギー危機になり、地球環境が破壊されます。それゆえ、現在、世の中の役に立っている人々は、おそらく二十二世紀の人類から、地球をダメにした極悪人として告発されるでしょう。そして、ホームレスの人々が、
 「あなたがたは地球にやさしかった」
 として表彰されるでしょう。
 このように、世の中の役に立つ人間は、時代によって違っているのです。いま引きこもりの人たちは、二十二世紀になると表彰状が貰える人なんですよ。引きこもりでじくじく悩む必要はありません。

 『二割と八割の法則』

 いや、それよりも-。
 考えてみてください、世の中の役に立っていない人間なんているのですか……?!
 わたしたちは、優等生が世の中の役に立つ人間で、劣等生は役に立っていないと思っています。しかし、劣等生がいなければ、優等生は存在しないのです。優等生は、劣等生のおかげで優等生になれたのだから、劣等生に感謝しなければなりません。そして劣等生とは、彼らを優等生にしてやるという大事な仕事をしているのだから、堂々と胸を張って生きればいい。自分は劣等生だからダメなんだと、卑屈になる必要はまったくありません。
 イタリアの経済学者のパレート(一八四八~一九二三)が、「パレートの法則」という経験則を発表しています。それによると、
 -会社の中で優秀な二割の社員が全体の仕事の八割をやり、残りの八割の社員が残った二割の仕事をする-
 ことになっているのです。そして、かりに優秀な社員ばかりを集めてグループをつくっても、同じ結果になります。また、クズの社員ばかりを集めてグループをつくっても、その中から優秀な人間が二割出てくるのです。
 ということは、すべての人間を優秀な人間にすることはできないのです。クズが八割いて、二割の人間が優秀になれる。その意味では、八割のクズの存在が大事です。クズの人間だって、大いに世の中の役に立っているのです。
 あるいは、こんなことも考えられます。もしもこの世から病人がいなくなれば、医者や薬剤師は生活に困ります。いや、そんなことはない。医師や薬屋は転職すればいいのだ、と言われるかもしれませんが、彼らが転職すれば他の職業の人が職を失うかもしれません。だとすれば、病人のおかげで医師や薬剤師が生活できるのであり、その医師や薬剤師が支払う金によって大勢の人の収入が保証されているのです。そうすると、いかに病人が世の中の役に立っているかがわかるでしょう。
 同様に、泥棒のおかげで警察官が生活できるのです。
 けれども、誤解しないでください。わたしは、泥棒をしていいと言っているのではありません。あるいは、病気になれとすすめているのではありません。そうではなくて、この世の中で優等生や努力家、健康でもりもり働いている人だけが役に立つ人で、劣等生や怠け者、病人は世の中の役に立たない人間だ、といったものの見方がおかしいと言いたいのです。
 要するに、わたしが主張したいことは、
 -この世の中で、なくていい人なんか一人もいない-
 ということです。そして、それがほとけさまのお考えだと思います。ほとけさまは、劣等生は劣等生のままですばらしいのだよ、怠け者は怠け者のままですばらしいのだよ、と言われるでしょう。わたしはそう信じています。
   *     *
 そのようにわたしは、引きこもりの若者に話しました。
 その後、若者から手紙が来ました。
 「自分は何度も自殺を考えたことがあるが、ようやく生きてゆく自信ができました」
 といった言葉がありました。わたしはちょっとうれしくなりました。

カット・伊藤 梓

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