天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第182号

熊本地震三回忌追悼法要を営む

 平成28年4月14日に発生した熊本地震は、熊本県、大分県を中心に大きな被害をもたらし、天台宗の寺院、檀信徒も少なからぬ被害を受けた。発生から2年を過ぎた本年4月22日、九州西教区では熊本県八代市の釈迦院 (作村尚範住職)において「熊本地震物故者三回忌 並 復興祈願法要」を営み、参列者約120名が犠牲者の慰霊と早期復興を祈った。

 「熊本地震物故者三回忌 並 復興祈願法要」は、22日11時より釈迦院で嘉瀬慶文宗務所長を導師に、教区内寺院住職の出仕で執り行われた。法要には、被災寺院住職、檀信徒、甘井亮淳天台宗財務部長、藤光俊天台宗宗議会議員、今泉好正教区議会議長らとともに、被災地益城町の仮設住宅に暮らす被災住民の人々も多数参列した。法要最後には、参列者に大般若による加持が行われたほか、甘井財務部長より被災地の自治体、町作りのための民間団体に義援金と協賛金が贈呈された。
 法要後、導師を勤めた嘉瀬宗務所長が「地震で亡くなられた方々の三回忌法要を営まさせていただきました。被災直後の支援活動に続いて、仮設にお住まいの方々の支援など、できる限りの支援を続けて参りました。一日も早い復興を目指し、教区としても頑張っていきたい」と挨拶。また、仮設住宅の被災住民も「今日の法要で、新たに悲しみがわき起こりましたが、犠牲者の回向ができて良かった。まだまだ元の暮らしを取り戻せていませんが、頑張って生きたいと思います」と語っていた。
 熊本地震から2年経った2018年の時点でも、未だ避難指示が2市1町1村、約1400世帯に出ており、避難勧告も1市5町1村、約3万世帯に出されている。避難所は今も被災各県で1000ヵ所以上あり、仮設住宅に暮らす人も3万人を超える。また避難者は11万人以上に上るといわれている。
 被災から2年という時間が経過した現在は、炊き出し、後片付けなど被災直後の支援活動と違った活動が求められる。被災者の生活環境が変わったことによる孤立化、引きこもりが増えてくることが懸念される。今後は、被災者ひとり一人の日常生活を支える持続的な福祉活動が必要となる。天台宗としても、その視点からの支援活動を考えていく時期となっている。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

人生は残りわずかとなってしまいましたが、でも今すぐ終わるわけじゃありません!
私はまだ半年もあります!

山下弘子

 山下弘子さんのお名前にピンとこなくても、がん保険のCMに出演していた若く美しい女性と聞いて「あっ」と思う方も多いでしょう。
 山下さんは19才の時に肝臓がんの告知と余命半年の宣告を受けました。念願の大学生になった時です。「余命半年だと宣告された三日間、確かに落ち込みもしました。けれど、自分でもびっくりするくらいにすんなりと受け入れていた自分がいます。周りがどん底の中、一人だけ『これからやりたい事リスト』を作っていました」。
 「余命半年」と聞いたら、どんな人でもショックです。「あと半年しかない」。ほとんど人はそう考えるのではないでしょうか。山下さんはそれを「与えられた時間」として感謝し、生かしていこうと力強く立ち上がります。
 自分の体験を各地で講演し、書籍を出版。国内外を旅行、登山やダイビングにも挑戦。そして最愛の人との結婚。山下さんの生前のブログや書籍には、病気のこと、家族や恩師、友達との日常で思うことなどが活き活きと描かれています。その時その時を大切に慈しみ、心から楽しんでいる様子がうかがえます。
 山下さんからたくさん出てくる言葉は「私は幸せだ」というものです。失敗したことも含めてすべてがつながって現在がある、そして自分を心配してくれて、支え、応援してくれる人たちがいるから現在がとても幸せだ、という思いをいつも心に持っていました。
 最初の宣告から半年は無事に過ぎたものの、がんは次第に肺、骨、リンパ、心膜と転移していきます。約6年間で手術は20回に及んだそうです。落ち込みながらも周りの人の愛情に感謝しつつ、前を向く山下さんはいつも輝いていました。
 いろんな人に希望を与えながら、惜しまれつつ、今年3月に25歳の生涯を閉じられました。ご冥福をお祈りいたします。

鬼手仏心

散る花 寺本 亮洞

 今年も桜の名所は大混乱だった。
「人の背中を見て疲れにいったようなものだった」とか「傍若無人にふるまう人達もいて、風情も何もあったものではなかった」と嘆く声も多く聞いた。
 しかし、混雑を極めるとわかっていながら出かけて行くのだから、風情が無くてもそれはそれで仕方がない。
 心静かに花を見たいというなら、人の行かない深山幽谷へでもいくのがよいのである。
 あるいは満開の時期が過ぎ葉桜になる頃もいい。
 「桜の花は、何も盛りだけを見るものではない。今にも咲きそうな桜の梢や、花が散って花びらがしおれている庭にこそ、見るべき所がある」と兼好法師もいっている。
 こういう美意識は日本人特有のもので、外国の方には理解しがたいものであろう。
 満開になって散る桜のことを「零(こぼ)れ桜」といったり、水面に散った花びらが吹き寄せられて流れていく様子を表現する「花筏(はないかだ)」という言葉もある。また水面に散った花びらが敷きつめられたものを「花の浮き橋」などという。
 実に多彩で情感豊かではないか。日本人は散った花びらにまで思いを寄せる民族なのである。
 兼好法師は「月や花を目だけで見るのではなくて、心の中で思うのもたいそう心豊かで趣深い」といっている。要は心の持ちようであろう。
私が常々心がけているのは「執着しない」ということである。それは、しつこくしないといってもいい。観光名所に「俺も、私も」と押しかけるよりは、さりげなく生きることが、豊かな生き方だと思う。
 新緑の季節を迎えた。「若葉の頃」である。爽やかな風吹く5月を楽しみたい。

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