天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第177号

相応和尚1100年御遠忌法要
—根本中堂・無動寺谷明王堂・葛川明王院で厳修—

遺徳を偲び、御心を後世に伝える

祖師先徳鑽仰大法会の第二期を迎えている中、1100年御遠忌法要が11月2〜4日に亘り、比叡山延暦寺根本中堂、無動寺谷明王堂、明王院において厳かに執り行われた。連日に亘り、北嶺回峰行者はじめ宗内諸大徳が出仕随喜し、遺徳を偲び、御心を後世に伝えることを宝前に誓った。

  相応和尚は、法華経常不軽品によって大菩提心を発し、いかなるものにも仏の姿を見出して礼拝し続ける“”を誓って「不軽の行」を実践してきたとされる。
 得度前には、6、7年に亘り毎日根本中堂へ花を供え続けてきたと伝わる。回峰行者は今も比叡山中を歩いて礼拝するすべての箇所に供花するなど、教えが連綿と受け継がれている。
 法要のスタートを切った2日は、草庵をかまえて苦修練行した回峰行の根本道場、無動寺谷明王堂で厳修。御祥当法要の大導師に叡南覺範毘沙門堂門跡門主、叡南俊照、光永覚道、上原行照、釜堀浩元大行満大阿闍梨、無動寺谷住職らが出仕して厳修された。
 また、山王信仰へ深い敬慕の念を持っていた相応和尚を偲び、日吉大社の馬渕直樹宮司が祝詞を奏上した。
 根本中堂で営まれた3日の御祥当法要は、森川宏映座主猊下を大導師に、延暦寺一山、各教区宗務所長ら約50人の出仕により厳修。(写真)
 宗議会議員、五箇室門跡門主ら宗内役職者ら約150人が随喜し、ご詠歌と和讃を唱詠し功績を讃えた。
 また叡南俊照大阿闍梨により世界平和や鎮護国家、万民豊楽を願う加持が奉修され、参列者全員で不動真言を唱えた。
 4日の御祥当後法要は相応和尚が参籠し生身の不動明王を感得したといわれる葛川にある明王院で営まれ、全国から65人の回峰行者らが出仕。叡南俊照、光永覚道大行満大阿闍梨を調声に奉修された。
 3日間の法要に随喜した大法会事務局局長の杜多道雄宗務総長は「仏教の根本は慈悲であります。そして慈悲の根本は『利他』の心です。ひらたくいえば『他の人が幸せになりますように』という願いのことです。『皆が一緒に幸せになろう』というのが法華経の教えであり、天台宗の宗祖伝教大師最澄上人の教えです。この『利他の願い』を実践されたのが相応和尚様であると申せましょう。そのご恩に感謝しつつ、自らも一隅を照らす人になることを誓いたいと思います」と語り、相応和尚を鑽仰し忘己利他の実践を呼びかけた。 

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

「凡夫の心は物にしたがひてうつりやすし。たとえばの枝につたふがごとし、まことに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし」

法然上人

 猿が枝を伝う様は、せわしなく、見る方も目の動きも止めることなく追い続けなければなりません。
 あっちへ行ったりこっちへ来たりで、まことに目まぐるしい限りです。普通の人間の心の動きもこの通りだというのです。
 考えてみると人間は、この通りの存在かもしれませんね。善悪のことについても、人間は100パーセントの善人とか悪人という存在はまずありえません。
 人の心というものは、常に移ろい、あるときは良いことをなし、あるときは悪いことをしますし、情という面でも、慈悲深いときもあれば、酷薄というべきときもあります。
 その他の面でも、多くの人間は、その両極端の間で揺れ動いているわけです。価値観を始め、諸々の判断基準が不定なのです。
 キリスト教では、神に導かれる存在である大衆を迷える羊(ストレイシープ)といいますが、これも同じような、人間イコール凡夫というとらえ方かなと思います。
 しかし、こういう存在だからこそ人間世界に芸術があるともいえましょう。小説にしろ、音楽にしろ、絵画しろ、この迷える存在が作り出す喜び、快楽、苦渋、悲嘆などが、いろいろに表現されるわけですね。
 そんな人間は、「凡夫」は、どこに心の安寧を求めるのでしょう。
 やはり、信仰となるのでしょうか。迷いのない普遍的な判断を持つ、絶対的な存在である神仏。そういった存在こそが、必要となるのです。
 つまり、迷える心・魂が神様・仏様にその身を預けることで、その安寧を保つのです。法然上人ですから、やはり浄土思想でいう「安心(あんじん)」という、阿弥陀如来を信じて疑わない境地へといざなう言葉だと思います。その言葉の裏には、凡夫への慈しみが隠れています。 

鬼手仏心

啐 啄 同 時 鬼手仏心

 「そったくどうじ」と読みます。
「啐」とは【まさにこれからかえろうとするが、殻の中からつついて音をたてる】こと。「啄」とは【母鳥が外から殻をつつく】様子です。
 この双方のタイミング・呼吸がピタリと合ったときは一安心、雛は首尾よくの目を見ることができます。
 このたとえとはちょっと違いますが、朝の通勤途中、時間に余裕がなく気持ちが急いているときでも、出会った人に「おはようございます」と声をかけ「おはよう」と返ってくると、なにか得したような、今日一日良いことがありそうな幸せな気分になります。
 どうも世界では、同じような道徳観・慣習を持つ社会での人間関係が、タイミングと呼吸が合いやすく、安心でき心地良いようです。
 決して違った価値観を持つことを否定するわけではありませんが…。
 さて、多忙な日々の中で、何となく気になり無性にお墓参り・お寺参りがしたくなることがありませんか?
 その時こそ、ご先祖様や御本尊様が、あなたに会いたくなった、声を聞きたくなったときです。あわせて、あなたが話を聞いていただきたかった〈嬉しかった・悲しかった・肩をたたいてほしかった〉ときなのだと思います。
 チャンス到来。まさに、啐啄同時この機を逃す手はありません、即実行!きっと清々しい、晴れやかな気持ちでその後を過ごせることと思います。
 時あたかも師走。ご先祖様や御本尊様は、あなたやご家族とお目にかかれる日を心待ちにしています。年の瀬やお正月は、お寺参り・ご先祖様参りの絶好の機会です。
 ご家族のこの一年間をお伝えし、新たな年の無事をお願いするご縁を大切にしたいものです。
 皆様、良いお年をお迎えください。

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