天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第175号

第31回世界宗教者平和の祈りの集い開催
ドイツ ミュンスター・オスナブリュック

「平和への道」は他者と共存することで開かれる

 カトリックの信徒団体「聖エジディオ共同体」が主催する「第31回世界宗教者平和の祈りの集い」が9月10日から12日までドイツ・ミュンスター、オスナブリュックにおいて開催された。天台宗では、西郊良光宗機顧問を名誉団長に、杜多道雄宗務総長、中村彰恵宗議会副議長、森田源真教学部長、小鴨覚俊延暦寺副執行ら12名の使節団を派遣し、諸宗教指導者と共に平和への祈りを捧げた。

 この集いは、1986年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2
世聖下の呼びかけでアッシジから始まり、以来、ヨーロッパ各地で年一度開かれている。
 今回のテーマは「平和への道」。10日にミュンスターで開催された開会式には、ドイツのメルケル首相、ニジェールのマハマドゥ・イスフ大統領ら各国首脳も出席。
 登壇者からの「平和とは他者と共存することであり、祈りこそが平和の交歓である」などとの発言に、メルケル首相は「諸宗教者の実り多き出会いが展開され、世界中に平和へのメッセージが発信されることを期待する」との言葉を寄せた。
 11、12日には市内各会場で24の分科会が行われた。
 11日には杜多宗務総長が「戦争とは常に『無益な虐殺』である」、12日には西郊宗機顧問が「アジアにおける宗教 世界市場という時代の命の尊厳」と題し、それぞれ提言した。
 杜多宗務総長は、唯一の被爆国としての立場から核廃絶を訴え、戦争を強く非難。8月の比叡山宗教サミット30周年記念のメッセージを紹介し、世界の宗教者が協力し合い共存共生の世界確立を呼びかけた。また西郊宗機顧問は宗祖大師の教えを挙げ「“忘己利他”を高く掲げ、相互理解と連帯こそが世界平和と繁栄をもたらすものであることを世界に示して進んでいきたい」と力強く語った。 
 12日夕刻からはオスナブリュックの会場へ移動。各宗教・宗派で平和の祈り法要が執り行われた後、市庁舎前広場で閉会式が行われ『平和宣言』が採択された。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

素晴らしき言葉たち

寝てゐても団扇のうごく親心

誹風柳多留

 夏の暑い昼下がり。寝ている子供にで風を送りながら、添い寝をしている母親。自分もうとうとと眠りかけるが、子供をいでやる手は止めないという光景です。
 子を思う母親の姿がよく出ている川柳ですね。母親の愛情というものは、いつの時代でも変わらないなあと思わせる、今でもよく知られている川柳です。
 は江戸時代中期から幕末にかけて刊行された川柳の句集。江戸のあらゆる階層の日常の暮らしがよく現されており、その時代の人々の心の内が生き生きと伝わる川柳集です。
 掲げた句のほかに、江戸の人々の、子どもに対する愛情が表現されているもので「旅戻り子供をさし上げて隣まで」という句もあります。旅から戻った父親が、迎えに出てきた子を高々と持ち上げ、留守中に世話になったお隣にお礼の挨拶に行く図です。
 汚れた旅装も解かず、笑顔のわが子を抱き上げている光景が目に浮かびます。
 こんな句も。「子を持った大工一足おそく来る」。これは、子持ちの大工さんの朝です。現場には、ほかの大工仲間は揃ったのに、一人遅れて駆けつける大工さん。実は、出がけにわが子をあやしていて遅れたのでしょう。子煩悩ぶりがよく分かります。
 明治の初期、大森貝塚を発見したアメリカの動物学者モースは「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。私は今迄に、すねている子や、身体的な刑罰は見たことがない」と日記に書いているが、これは、その前の江戸期でもそうだったでしょう。
 現代の日本社会では、幼児虐待のニュースがよく聞かれます。しかし、それはごくまれなことだと思います。
 こうした川柳に会うと、人間の持つ親子関係は、昔から変わらないものだと、強く信じたいものです。

鬼手仏心

観客VSアスリート

 スペクティター・スポーツという言葉がある。直訳すれば、観客を伴うスポーツである。
 一大スペクタクルという宣伝文句を聞いた人もあると思う。スペクタクルは同じ語源で「大見せ物」という意味である。
 最も注目される試合や、記録のかかった大会は、しばしば大観衆を伴うから、こう呼ばれるのだろうが、欧米では、そもそも人々に見られないようなスポーツは、スポーツの名に値しないと考えられているのだと思う。
 会場に観戦に訪れる人々はもちろん、テレビの向こうには億を超える観衆がいる。
 それでこそスポーツなのである。
 「私は街のジムでスポーツをしている」という人もあるだろう。それは厳密にはエクササイズと呼ばれるものであってここでいうスポーツではない。
 一流のアスリートたちは、一挙手一投足を何億という目に見つめられながら競技を行うのである。
だからいつか、このコラムでも書いたが、無観客試合というのは、スポーツ選手にとっては大きな制裁となるのである。
 主催者にとっては入場料を得ることが出来なくなり、観客にとっては試合を生で見ることが出来なくなる。観客がいないから、全く歓声が無い。選手はモチベーションの維持に苦労する。
 また、スペクティターと語源を同じくするものにスペクターがある。これは幽霊という意味だ。スポーツでは幽霊のように一瞬に立ち現れて消える美技があるし、一瞬だけにめく奇跡がある。これらはVTRには残るが、一瞬にして消えてゆくものである。
 その一瞬を求めてアスリートたちはしのぎを削り、観客は試合場に足を運ぶのである。

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