天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第21号

心から心をつないで-地球救援募金強化月間-全国一斉托鉢始まる

 今月 十二月は、全国一斉托鉢の月です。
天台宗では「地球に慈愛の灯を!」をスローガンに、毎年全国で「天台宗全国一斉托鉢」を展開しています。十二月一日には天台宗と総本山延暦寺をはじめ、各天台宗教区・寺院で托鉢を行います。皆さまの浄財をお待ちしています。

 托鉢とは、本来僧侶が自分の鉢を持って一般在家の宅を廻り、信心の布施を頂戴し、自らの糧とする修行です。
 お釈迦様が托鉢をしていたとき、農夫から「人に恵んでもらわずに、自分で耕して食べろ」と言われ、お釈迦様は、「信仰が種であり、修行は雨、智慧が人々の心を耕し、全ての苦悩からの解放を実らせます。私は、托鉢をすることで、信仰の種をまき耕しているのです」と答えたといいます。
 このことは、托鉢が、執着を越え、衣食住に「少欲知足」を旨とし、人々が僧侶に金銭や食物を施す善根(布施・財施)を積ませる尊い行為であることを教えています。また托鉢は、僧侶が在家者に法を説く布施(法施)と一体になっています。

 天台宗では、皆さまが喜捨された浄財を、社会福祉施設やNHK歳末助け合いなどに寄託しております。
 また本年は、天災により、被災された方々への救援募金も併せて行います。長期にわたって実施することのできるよう今月十二月中を「地球救援募金強化月間」と定めています。ご協力をお願いいたします。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 人間はみな心の陰を人に見られたくない思いで生きています。そして、光の当たっているところだけを見せようとして、かえって疲れ果てているのです。もし、人間の陰、それも一人ひそかに背負い込んでしまった心の陰を、ありのままに聞いてもらえる人や、訴えることのできる相手があったとしたら、人はどんなに楽になることでしょうか。

『いのち分けあいしもの』 大須賀発蔵著 柏木社刊

 私たちは、日常生活や仕事で「役」を演じることが多いものです。よほど天真爛漫な芸術家でもないかぎり、地の姿はみせません。
 例えば、鬼課長であったり、抜け目ない商売人であったり、いつも周りを笑わせている部長であったりします。しかし、それは辛い仮面である場合が多いものです。長年、その仮面をつけて生きていると、本当の皮膚が仮面に張り付いて、自分自身でも見分けがつかなくなってしまったりします。
 役を演ずるといいましたが、私たちは赤ん坊ではないので、思うがままに喜怒哀楽を人にぶつけて生きることができないという意味です。希に、そんな人もみかけますが、それでは社会も職場もうまく回らないことは、皆さんがご存じの通りです。  
 しかし、役を演じるのに、みな疲れ果て、ありのままの自分を受け入れてくれ、ただ一緒に居てくれる人を求めています。できるなら求められる人になりたいと、そう思います。

鬼手仏心

托 鉢  天台宗出版室長 工 藤 秀 和

 
 朝晩、めっきり冷え込むと思ったら、もう師走である。
 月並みで申し訳ないが「一年早いものだなあ」と思う。今年最後の原稿になった。
 今年四月に、広報天台を復活させて、本紙をリニューアルした。それから本号を九回、正月増刊号を一回、天災の号外を一回と、計十一号をリリースさせた。
 正直に申し上げれば、楽に発刊できたことは一度もない。素人の悲しさで、編集には、毎月悪戦苦闘している。だが、購読者が増え、各教区から提供される記事が月ごとに増加し、新年号は予想以上に購買して頂いた。皆さまの御支援を、有り難いことだと思う。
 今年を振り返ってみると、全国で天災による被害が相次いだ年であった。寒さがつのり、雪が降る時、被災された人々のことを考えると、じっとしていられない気持ちである。
 今月一日には「天台宗全国一斉托鉢」が行われる。また今月は「地球救援募金強化月間」でもある。各地を托鉢僧が歩く。皆さまのご協力を心よりお願い申し上げたい。
 禅宗の僧侶方は「ホーイ、ホーイ」と声をかけて、家々を回られる。素足に草鞋履きで、背筋の伸びた姿は美しい。
 私どもは、般若心経を唱えて各家を回ったり、「お願いしまーす」と声をかけたりしながら、街頭に立ったりする。旗を立てて、数人で回ったり、一人で行ったりする。地下足袋を履いたり、時にはスニーカーの若き僧侶もいる。格好は、少々野暮ったいかもしれないが、気は心である。皆さまのお志が、困っている人に届くように托鉢に歩きたい。
 毎年寒風の中を歩いていると、皆さまから寄せられる暖かい気持ちが冷えた体を温めてくれる。時折みかけるサザンカの美しさが、一層きわだって見えるのも托鉢の時である。

仏教の散歩道

自分勝手な信仰

 岩手県遠野市に伝わる民話に、こんなのがあります。
 大雨が降って、普段はおとなしい猿ケ石(さるがいし)川が増水し、徳弥(とくや)という男の家が流されそうになります。そこで徳弥は、川に向かって大声で、
 「川の主、川の主、娘をおまえにやるから、俺の家を流さないでくれ!」
 と叫びました。すると、その声が川の主に聞こえたらしく、川はたちまち減水しました。
 だが、あとで徳弥は後悔します。十八歳の娘を人身御供(ひとみごくう)にするなんてできません。それで、ちょうどそのとき村にやって来た乞食の母娘を言いくるめて、その娘を川の主にやることにしました。乞食の母親は、立派な着物をきて、大勢の村人に見送られて死ぬのは、乞食のままで死ぬよりましだと、親子が一緒に犠牲になってくれました。
 それで徳弥はほっとしました。
 でも、やはりそれは約束違反です。乞食の母娘が死んだ翌日、徳弥の娘がぽっくり死んでしまいました。
      *
 ところで、『日本霊異記』には、こんな話があります(中巻・第十二)。『日本霊異記』は、平安初期の仏教説話集です。
 ある女が、大蛇が蛙を飲み込もうとしているのを見て、その蛙を助けてやってくれるように頼み、交換条件に、
 「わたしがあなたの妻になります」
 と申し出ました。蛇はそれを承知し、蛙を吐き出しました。
 だが、女は蛇の妻になる気はありません。約束の日に蛇が迎えにやってくると、女はぴっしりと戸を閉めて、熱心に仏に祈りました。
 すると、そこに八匹の大蟹がやってきて、そのはさみでもって大蛇をずたずたに切断してくれました。じつは、その八匹の蟹というのは、牛飼の童たちが蟹を焼いて食おうとしていたのを、女が自分の衣と交換して買い取り、逃がしてやったものです。だから、これは蟹の恩返しなんです。
      *
 さて、読者はどう思われますか? 徳弥と女と、二人とも相手を騙したことに違いはありません。ところが、民話の方では騙した徳弥が悪者にされていますが、仏教説話だと騙された蛇が悪者にされています。 
 この仏教説話はおかしいと思います。平安時代の人々の仏教理解はこの程度だったのでしょうが、このような考え方は仏教の教理ではありません。できもしない約束をして、困れば仏に助けを求める。そして、相手が困ろうが、そんなことは自分の知ったことじゃないと思っている人が現代にもいます。そんな自分勝手なご利益信仰を仏教が説くのであれば、わたしは仏教者であることを恥ずかしく思います。

カット・伊藤 梓

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