天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第166号

天台宗全国一斉托鉢を実施

共に分かち合うこころをつなぐ

天台宗では、毎年12月1日に全国一斉托鉢を行っており、昨年も同日に実施された。師走のスタートとなる日の托鉢であることから、今では「師走の風物詩」といわれるまでに定着している。同日を含め、全国各教区で実施された托鉢で寄せられた浄財は、一隅を照らす運動総本部の地球救援募金などを通じて、国内外の福祉活動への支援に活用される。

全国一斉托鉢も、昭和61年、故山田惠諦天台座主猊下が自ら先頭に立って浄財を集められてから昨年で31回を数えた。宗祖伝教大師の「忘己利他」の精神を実践に移す行為として始められ、後には「一隅を照らす運動」の一環として「地球救援募金強化月間」と定め、活動が拡げられてきた。こうした毎年の取り組みが師走の行事として定着し、全国の人々の思いがこもった浄財も、年ごとに多く寄せられるようになった。
 同日、比叡山麓坂本地区で行われた托鉢では、森川宏映天台座主猊下を先頭に、木ノ下寂俊天台宗宗務総長、小堀光實延暦寺執行、延暦寺一山住職、天台宗務庁役職員など約100名が参加。宗祖生誕の地、生源寺で法楽の後、坂本地区の里道を各家の戸口で読経しつつ行脚し、浄財の寄進を受けた。
 行脚の道筋では、家々の玄関先に托鉢の一行を待ち受ける人も多く、托鉢行脚へのねぎらいと共に「恵まれない人のために」と浄財を喜捨されていた。
 今回の一斉托鉢では、街頭募金が早朝7時半からの先発班と、それに続く後発班の2班に分かれて行われた。また、例年のごとく、地区の一軒一軒をまわる戸別托鉢も行われている。
 寄せられた浄財は、地球救援募金を通じて、NHKの歳末たすけあい、各地の社会福祉協議会、日本赤十字社へ寄託される。

「ごくろうさま」の言葉を添えて
 坂本地区での托鉢とともに行われた街頭募金は、JRの大津京駅、堅田駅、比叡山坂本駅や京阪坂本駅で行われた。各駅頭では、毎年行われる天台宗の一斉托鉢ということで、「ごくろうさま」の言葉を添えて、心のこもった浄財を寄せるお年寄りや、母親に助けられながら小さな手で、募金箱に浄財を入れる幼児の姿もあった。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

つぎの一歩のことだけ、つぎの呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。
いつもただつぎのことだけをな。
するとたのしくなってくる。
これがだいじなんだな

『モモ』ミヒャエル・エンデ

あけましておめでとうございます。
 周りに、年明け早々から不機嫌でいらいらとしている人はいませんか。おこりっぽくて落ち着きのない人はいませんでしょうか。
 中には「時間がもったいない」とせかせかしている人がいるのかもしれません。次から次へとやるべきことが頭に浮かび、憂えているのかもしれません。
 『モモ』は1973年に刊行された児童文学で、時間泥棒たちに盗まれた大人たちの時間を、モモと友達が開放してあげる話です。現在もなお多くの人に読まれ続けています。
 主人公である少女「モモ」の親友に「ベッポ」がいます。ベッポは道路掃除夫のおじいさんです。
 ベッポは言います。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう」「そこでせかせかと働き出す。(中略)心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう」。
 しかし、ベッポは考えます。そして、「つぎの一歩のことだけ、つぎの呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ」と言い、「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない」「これがだいじなんだ」と話を終えます。
 ベッポの言葉に、はっと気づかされます。いらいらせかせかするのは、心がそこにないからなのだと。「そこ」とは「いま」のことなのです。先のことばかりに気を取られてしまうと、「いま」がおろそかになり、やがては積み重なった時間の全てが「大変だった。つまらなかった」ことになってしまいかねないのです。
 「いま」を大切に生きることが充実した一年の始まりとなるのでしょう。
 みなさまの一年が良いものとなりますように。

仏教の散歩道

仏への全権委任

 〝南無(なむ)〟という語は、サンスクリット語の〝ナモー〟を音訳したもので、「帰依します」といった意味です。阿弥陀仏(あみだぶつ)に帰依するのが「南無阿弥陀仏」で、『妙法蓮華経』(略して『法華経』)に帰依するのが「南無妙法蓮華経」です。その他「南無釈迦(しゃか)牟尼(むに)」「南無大日如来」「南無観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」などがあります。
 さて、そこで、いまは「南無阿弥陀仏」を代表にして考えてみます。「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に帰依しますといった決意表明の言葉です。
 で、わたしが思うのは、「帰依します」と表明した結果、わたしたちは何がどうなろうと、それをそっくりそのままいただかねばなりません。すなわち、帰依するというのは阿弥陀仏にすっかりおまかせするといった全権委任であって、おまかせした以上、何が起きてもわたしたちは阿弥陀仏に文句を言ってはなりません。まかせておいて文句を言うのは、卑怯な態度です。それなら、おまかせしないほうがいいのです。
 じつは、これは、宗教において「信ずる」という問題なのです。わたしたちは阿弥陀仏を信ずるが故にすべてを阿弥陀仏におまかせするのです。そして、おまかせした以上は、いかなる結果になろうと文句を言ってはいけません。阿弥陀仏がそういう結果をくださったわけで、それをそのままいただかねばならないのです。
 よくわたしたちは、人間関係において、
 「俺はあいつに裏切られた」
 と言います。なるほど、人間対人間の関係において、裏切りはあるでしょう。けれども、阿弥陀仏対人間の関係において、裏切りなんてあるでしょうか。人間は阿弥陀仏に全権を委任する(それが南無)のであって、阿弥陀仏と取引するのではありません。だから裏切りなんてあり得ないのです。
 たとえば、われわれが病気になって、早く病気が治ってほしいと阿弥陀仏にお願いします。本来はお願いなんかしないほうがよいのですが、まあお願いするのは仕方がないことだとしましょう。しかし、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏にすべてをおまかせした以上、たとえ病気が治らなくても、それで文句を言ってはいけません。わたしたちは病気のまま、明るく、楽しく毎日を過ごすようにすればよいのです。病気を〈いやだ、いやだ〉と、かこちながら生きるより、病人のまま幸せに生きるように努力すればよいのです。いいですか、健康イコール幸福/病気イコール不幸ではありません。健康でありながら不幸な人は大勢います。病気でも幸福に生きている人もいます。わたしたちは、幸福な病人になればいいのです。それが阿弥陀仏の願いだということに気づけばよいのです。
 ともあれ、「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に全権を委任して、おまかせすることなんですよ。 

カット・酒谷 加奈

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