天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第165号

四国・三岐教区で特別授戒会
—天台宗祖師先徳鑽仰大法会—

仏弟子となり 菩薩の道を歩む

祖師先徳鑽仰大法会の一環として昨年度から特別授戒会が奉修されている。毎年四地区で一度づつ、七年間に亘って勤められる。去る11月16日には、第四地区の四国教区と第三地区の三岐教区で執り行われた。四国教区では大樹孝啓探題大僧正が、また三岐教区では、叡南覺範探題大僧正がそれぞれ伝戒大和上を勤めた。会場は四国教区が常信寺(薄墨昌澄住職)で戒弟は約40名、三岐教区は慈明院(小池祖堂住職)で戒弟は約200名であった。

天台宗では、菩薩戒を授かる特別授戒会を祖師先徳鑽仰大法会の根幹と位置づけ、組織的に各教区、地区で執り行っている。宗祖伝教大師が中国天台山より授かった大乗の菩薩戒の法脈は、天台宗において代々受け継がれてきている。
 これは宗祖大師は、すべての人々がこの菩薩戒を授かり、菩薩の道を歩むことがこの国の安寧につながり、人々の幸せを生み出すと確信されていたからである。
 四国教区では、同日午前9時すぎ戒弟が入堂、説戒師の水尾寂芳・延暦寺一山禪定院住職より授戒における心得や要点などについて説戒を受けた。正授戒会では、大樹伝戒大和上の言葉に戒弟ひとり一人が合掌して誓いの言葉を唱和した。また、戒弟はそれぞれ大樹伝戒大和上よりおかみそりを受け、羯磨(かつま)師から仏舎利を授かった。(写真)
 授戒を終えるに当たって大樹伝戒大和上より「今日、皆さんは立派な在家の菩薩となられたわけで、このことを忘れず、世のため、人のため日々精進していただきい」との言葉があり、戒弟も感激の面持ちであった。
 なお、奉行を木村俊雅長尾寺住職(同教区宗務所長)、羯磨師を米谷静俊福樂寺住職、衆僧には永合韶俊松岳寺住職(同教区宗議会議員)らが勤めた。随行長は田中祥順天台宗参務。 


三岐では二百名が授戒
 三岐教区でも同じく16日に特別授戒会が同教区慈明院で奉修された。(写真)
 伝戒大和上は、叡南覺範探題大僧正、説戒師は佐後映雄佛眼院住職(同教区布教師会会長)が勤めた。戒弟は約200名という多人数のため、授戒会は午前と午後の二座に分けて執り行われた。正授戒では、叡南伝戒大和上の正戒発得などでの「能(よ)く持(たも)つや否や」の問いに戒弟は、本堂いっぱいに響く声で「能く持つ」と唱和していた。
 同特別授戒会の奉行は森喜良常住寺住職(同教区宗務所長)、羯磨師は坂本実仁東光寺住職(同教区宗議会議員)がそれぞれ勤めた。なお、随行長は小堀光實延暦寺執行、随行員は中島有淳天台宗参務であった。 

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

善とは何か。後味の良い事だ。
 悪とは何か。後味の悪い事だ。 

アーネスト・ヘミングウェイ

 善とは道徳的に正しいこと、悪とは道徳的に正しくないこと。一般的にはそう解釈されます。そして道徳とは、人間が社会生活をおくるための行動基準ということです。
 ここで問題となってくるのは、善や悪はハッキリというか、絶対的な解釈はない、ということですね。時代により道徳概念は違ってきますし、個々の事例により判断基準は変わってきますから、何が善で何が悪か、ということは相対的になってきます。
 例えば「人の命を奪うことは悪」という解釈は誰もが肯定します。では、一人の命を見殺しにすれば、百人の命が救われるとしたら善悪の判断はどうなのでしょうか。或いは、百人の命を見捨てて、一人の英雄の命を助ければ、後に千人、万人以上の命が助かる可能性が大なら、その百人を見捨てることが悪なのか。難しい判断になります。
 昔に比べ、法律も増え複雑化し、単純に判断できない事例も多くなった現代では、善悪の判断は本当に難しくなっています。
 アメリカの小説家でハードボイルド小説の生みの親といわれるヘミングウェイは、もっと単純かつ素朴に判断基準を示します。つまり「人間として」その判断が「スッキリ」とするか、はたまた「気分が悪い」のか、そこで判断せよ、と言っているのです。原初的な心の判断に任せよ、ということですね。
 結局、たとえ悪いことを隠し善を装っても、自分は欺せないし、他人からすれば悪だ、と言われようとも、自分では善だと信じているならば、良しとすべし、ということだと思います。
 しかしこうなると、自分の判断が中心となります。だから、善悪の判断が本当に難しい時は、「仏さまならどう判断されるのか」という立場が必要ではないでしょうか。

鬼手仏心

人それぞれ

今年も私がかつて担任した卒業生から、同窓会の招待を続けて受け、久しぶりに良きひとときを過ごしました。
 既に還暦を過ぎた者、また還暦の節目を感じながら、友との絆を確かめあい、若き日の想い出を語る者など、それぞれに古き友との再会を楽しんでいました。
 会場へ着くなり「お久しぶりです」と駆け寄ってくれる卒業生たち。ですが、思い出せません。予め卒業年度のアルバムに目を通してくるのですが、顔と名前が一致しません。恩師と呼ばれるには失格かもしれません。
 特にそれが著しいのは女の子です。何度かこうした機会はあっても、数年経てばまた姿かたちもころっと変わります。
 釈尊が説かれた『法華経』の中に《三草二木の喩え》があります。地上に雨が降って大地を潤し、草木はその恩沢によってそれぞれの力に応じて生育し、また花を咲かせたり実を実らせたりします。
 同じように人間も、各人はそれぞれの能力や顔かたちや性格など異なっていても、自分の持って生まれたものにふさわしい花を咲かせ実を実らせます。
 これは『法華経』の「薬草喩品」に述べられる教えであります。
 他人と我が身は違ってあたりまえ、ことさらに比べることなく生きることだと、釈尊が説かれる平等の教えであります。
 「各人の適正に応じて花を咲かせ、実を実らせる」
 楽しい同窓会の席で、若き日を回顧し、それぞれに談笑する姿は、実にほほえましいかぎりです。その卒業生の姿は釈尊の教えの通りで、御仏と卒業生の姿が重なって映ったひとときでありました。

仏教の散歩道

反省よりも懺悔を

 ─反省だけなら猿でもできる─
 昔、テレビ・コマーシャルで、そんな言葉がありました。猿が、さも反省してるかのようなポーズをとって、そこにこのようなテロップが流れるのです。なかなかユーモラスなコマーシャルでした。
 わたしたちは子どものころから、なにか失敗すると、「反省しなさい」と言われて育ってきました。でも、本当に反省する必要があるでしょうか。わたしはそうは思いません。いくら反省しても、われわれは同じ失敗を繰り返すからです。たとえば、野球選手がエラーをします。そして彼がいくら反省しても、同じようなエラーをすることだってあるのです。では、どうすればよいでしょうか?わたしは、再び同じようなエラーを繰り返さないためには、練習を重ねる以外に方法はないと思います。その意味では、なるほど「反省だけなら猿でもできる」は名言だと思います。
 では、仏教の考え方はどうでしょうか?
 反省する必要はない─というのが、仏教の考え方だと思います。なぜなら、われわれ人間は不完全な存在であって、どうしても失敗するようにできているからです。失敗しないのは仏だけです。
 そして、かりにわたしたちが反省したところで、その反省は中途半端であって、たいていは言い逃れになってしまい、自分の責任逃れになりかねません。
 たとえば他人と喧嘩をしたときです。わたしたちのする反省は、最初は殊勝に自己の非を認めていても、最後には他人を非難することになりかねません。
 〈そりゃあ、俺にも悪いところはある。だが、あのとき、あいつがあんなことを言わなければ、俺もああまで腹を立てなかった。だから、喧嘩になった原因はあいつにある。あいつが悪いんだ〉
 となってしまいます。そんなことなら、反省なんかしないほうがよいのです。
 では、どうすればよいのでしょうか?
 仏教においては、反省ではなしに、
 ─懺悔(さんげ)せよ─
 を教えています。〝懺悔〟は、一般には〝ざんげ〟と発音されますが、仏教語としては〝さんげ〟になります。これは、仏に対して謝罪することです。
 具体的にはどうすればよいかといえば、たとえば喧嘩をした相手に謝罪することではありません。この世で謝れば、そのときの態度や言い損じによって、かえって喧嘩が蒸し返されることがよくあります。わたしは、
 〈そうだ、あの人には、お浄土で再び会ったとき、お詫びしよう〉
 と思うことにしています。お浄土においてなら、二人はともに仏のこころを学んでいますから、きっと赦し合えるようになるでしょう。わたしは、それが懺悔だと思っています。

カット・酒谷 加奈

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