天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第20号

新潟県中越地震-私たちに出来ることを今すぐ-
天台宗災害対策本部を設置

 新潟県中越地震で、天台宗は十月二十五日天台宗務庁内に、西郊良光宗務総長を本部長とする災害対策本部を設置した。現地の対策本部と連絡をとりながら、救援募金の呼びかけや、物資の搬送、ボランティアの派遣窓口となる。すでに、近隣県の天台仏青を中心としたボランティア団は、現地入りのスタンバイを終えている(27日現在)。

 天台宗信越教区のうち新潟部は法人寺院十九カ寺と、非法人寺院が二カ寺ある。
 二十三日午後五時五十六分に発生した地震について、二十四日には、西郊宗務総長はじめ、担当セクションである総務部、社会部、一隅を照らす運動総本部の職員が休日出勤して情報収集にあたった。
 その結果、本堂や仏像に被害が出たり、壁が剥落した寺院は六カ寺、被害なし、あるいは軽被害が四カ寺で、電話連絡不通や、応答なしが十一カ寺であった。応答のない寺院の多くは、被害の大きい小千谷市、十日町市、上川村、川西町に集中している。
 小千谷市岩沢町にある龍覚院の渡辺覚忍住職は「私の寺自体の被害は少なかったが、過疎地のために交通が遮断されている。町内会長として焚き出し中だが、次の揺れがあれば寺がもつかどうか心配でたまらない」と語った。

-救援先発員を派遣-

 また、二十五日天台宗では、一隅を照らす運動総本部から課長級を含む数人の職員を派遣。総本山延暦寺からも一名が参加した。同日夜に信越教区で開催された現地対策本部(小山健英対策本部長)の会議に出席して、物資の搬入ルートや人的派遣の具体的救援方法を協議すると共に、翌日には被災寺院を見舞うために現地入りした。
 更に二十五日から招集された宗議会で、渡邉惠進天台座主猊下は「亡くなった方々のご冥福をお祈りすると共に、復興救援がすみやかになされ、救援と支援が行き届き一日も早く平穏な日々を取り戻されるよう祈念する」と述べている。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

おおきなさかなはおおきなくちで
ちゅうくらいのさかなをたべ
ちゅうくらいのさかなは
ちいさなさかなをたべ
ちいさなさかなは
もっとちいさな
さかなをたべ
いのちはいのちをいけにえとして
ひかりかがやく
しあわせはふしあわせをやしないとして
はなひらく
どんなよろこびのふかいうみにもひとつぶのなみだが
とけていないということはない

「黄金の魚」  谷川 俊太郎

 私たちは生きていくために、他の命あるものを犠牲にしています。そんなことは当たり前で、毎日、改めて考えることもありません。
 連鎖の輪という考え方があります。例えば小さな魚を、大きな魚が食べ、それを更に強い生き物が食べるということです。人間は、この輪の最頂点にいます。
 しかし、人間だって、死ねばと肉体は土に還ります。ですから、連鎖という大きな輪の頂点にいるからといって絶対の存在ではありません。
 私たちは他の命を頂いて生きています。いいかえれば、他の生き物の不幸せで、生きているわけです。
 であれば、循環の摂理に対して畏敬と謙虚の思いを持つことが大事です。そうすれば、他の生き物と共にこの世に在ること、そして命を貰うことへの感謝が自然と湧いてきます。私たちは、共生のサイクルの中で生きているのだという自覚を忘れてはならないと思います。

鬼手仏心

忘路  天台宗出版室長 工藤 秀和

 
 高くて、澄みわたった空のことを中国では「秋高気爽」と呼ぶらしい。
 漢字の国らしく、晴れ晴れとした雰囲気が出ている。
 そんな秋空の下で、山道をぶらぶらと歩くのは何とも気持ちがいい。
 比叡山の古道でもそうだが、わたしの故郷でも山道を歩くと、何体もの「野仏さん」に出会う。村人が祠をつくって、ていねいにお祀りしてある野仏さんもあるし、そのまま野ざらしという仏さまもある。前掛けがかけてあったり、花やお水が供えてある仏さまもあるが、数は、何にもない野ざらし派の方が圧倒的に多い。
 頭が欠けていたり、手がかけていたり、削り取られて半身がなく、限りなく石に近い野仏さんもある。けれども、格好は悪いが、それぞれに、それはそれで愛らしくもあり、ありがたいと思われるお姿である。
 ひとつひとつは、もともと願う人が彫り、名前もあっただろうが、今は名も無き仏である。しかし、その何もかも捨てきった風情が、逆に尊く思えて、思わず手を合わせて祈ってしまう。
 踏まれても、無視されても、じっとそこに佇んでおられるお姿そのものが、ただただありがたいと思えるのである。
 禅宗には「忘路」という言葉がある。今まで生きてきた道を、サッと掃き清めて、過去の事など何にもなかったように生きていく、という意味である。そんな清々しい生き方に憧れはするが、いろいろなしがらみがあって、簡単に過去を捨てきれないのが人間の厄介なところだ。
 まずは、今日一日、新しい心で生きることから始めてみたい。
 頭や手や体という大事なところを全部捨てて、ついには捨てるという意識すら捨てて、野にある仏さまのお姿は、秋風のように爽やかである。

仏教の散歩道

鬘(かつら)と補聴器と

 中学生の娘が、せっせとお小遣いを貯めています。母親が、「何に使うの…?」と尋ねると、父親へのプレゼントを買うためだ、と答えました。ここまでを聞くと、誰もが親孝行な娘だと思います。
 ところが、娘が父親にプレゼントしたい物は、
 ―鬘―
 なんです。それを聞いて、読者はどう思われますか? しかも、なぜ彼女が父親に鬘をプレゼントしたいかといえば、その中学校では父親参観日があって、禿げている父親が来るのが恥ずかしいからです。
 そこまで聞けば、われわれは最初の印象を取り消さざるをえません。彼女の気持ちはわかりますが、しかし彼女の父親に対する仕打ちは、まさに、
 - 残酷-
 と評するよりほかありません。お父さんは醜い。そんな醜い父親の姿を友人に見られたくない。そう言われて、喜ぶ父親がいるでしょうか。わたしたちは、その中学生の娘に腹立ち、怒りさえ感じますね。そうではありませんか。
   *  *
 けれども、わたしたちは、この中学生と同じようなことをしているのですよ。いつか、妻のきょうだいたちが集まって、年を取って難聴になった母親に補聴器を贈ろうと話していました。実の子どもたちの話し合いだからわたしは黙っていましたが、あとで妻に、
 「あれは、残酷な話だよ」
 と注意しておきました。幸いにも、義母は自分で補聴器を買って来て、使いにくいものだから使わずにいます。だからよかったのですが、もしも子どもたちがプレゼントしたらどうだったでしょうか。
 だって、考えてみてください。補聴器をプレゼントするということは、耳が遠くなった人間に向かって
 「おまえは欠陥人間だ」
 と宣言していることになります。人間は年を取ると、みんな難聴になるのです。そうすると、結局は年寄りはみんな欠陥人間だといっていることになるわけです。
 いえ、本人が買うにはいいのです。視力が弱くなると不便だから眼鏡を買う、老眼なったから老眼鏡を買う、それは問題ありません。自分で買うからいいのです。父親が自分で鬘を買うのであれば、われわれがとやかくいう問題ではありません。
 問題は、鬘や補聴器をプレゼントする神経です。
 考えてください。どうして耳が遠くていけないのですか。難聴の母には、子どもたちがしっかりと大きな声で話してあげればいいのです。年寄りを除け者にしないで、いつも老人を中心において話をする。そうすると、耳の遠い老人にもよく聞こえるのです。
 それが、本当の愛情ではありませんか……。

カット・伊藤 梓

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