天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第163号

第30回「世界宗教者平和の祈りの集い」アッシジ

イタリア・アッシジで第30回「世界宗教者平和の祈りの集い」が、9月18日から20日まで開催された。この集いは、カトリックの信徒団体である聖エジディオ共同体が主催するもので、天台宗は森川宏映天台座主猊下を名誉団長とする使節団を派遣、世界の宗教指導者と共に、世界平和への祈りを捧げた。祈りの集い参加にさきがけ、16日に、森川座主猊下はローマのバチカン(ローマ法王庁)を訪問。第266代ローマ教皇・フランシスコ聖下と会見し、明年比叡山で開催される「比叡山宗教サミット30周年記念『世界宗教者平和の祈りの集い』」への出席を懇請し、親書を手渡した。

  バチカンと日本天台宗との縁は、1981年にヨハネ・パウロ二世教皇が日本を訪問し日本の宗教指導者を前に「宗教協力には、天台宗宗祖最澄の示した『己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり』という精神が必要である」と述べたことに始まる。
 1986年には世界の代表的宗教指導者がカトリックの聖地アッシジに招かれ「世界宗教者平和の祈りの集い」が開催された。その時天台宗からは第253世山田恵諦天台座主が参加した。以来、アッシジの祈りの集いの精神を引き継ぎ、比叡山宗教サミットが開催されてきている。比叡山での祈りの集いは今年で29周年を迎えた。
会見で森川座主は、フランシスコ教皇としばし歓談し、明年8月3、4日に開催される「比叡山宗教サミット30周年記念『世界宗教者祈りの集い』」への出席要請親書を手渡した。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

貧道(自分)の嗜(たしな)まざる所三あり。
 曰く詩人の詩、
 書家の書、
 庖人の饌(せん)これなり(料理人の料理)
                    

良寛

専門家の作った詩歌や書は巧みであり、料理は美味しいが、それはあえて好まないと、良寛さんは言います。坊さんの世界でも野にあった良寛さんらしい言葉ですね。
 何も専門家の仕事を嫌ってのことではなく、ただ、自分の生き方に即しての気持なんだと思います。市井(しせい)に生きる人々、いわゆる庶民のつくる詩、書、食べ物こそが、私には良い、と言うのです。そこにある洗練されていない素朴な味わいこそが、良寛さんにとって、かけがえのないものなのでしょう。
 「天上大風」という良寛さんのよく知られた書があります。村の子どもにせがまれて、凧(たこ)にこう書いたそうです。空高くには、大風が吹いており、凧がよく揚がるようにといった思いを込めた書でしょう。
 書の目利きでもない者の眼からすると、どう見ても筆下手の、ハッキリ言って稚拙な字としか思われません。しかし、何とも言えぬ素朴な印象を持つ字です。良寛さんの嫌いな専門家から、絶賛されているのも、ちょっと皮肉なことです。
 良寛さんの辞世の句といわれるものに「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」という句があります。良いところも、悪いところも全て隠さず見せてきた生き方、を意味するのでしょうか。
 そういう良寛さんですから、どうしても良く見せるために〝技巧〟や〝虚飾〟が入りがちな専門家の作ったものよりも、飾らない、あるがままであることを愛したのでしょう。

鬼手仏心

鬼手物心

 檀信徒の方から「これなら『生きる上でこれさえ守っていれば絶対にまちがいない』という信条は何でしょうか?」とよく聞かれます。
 「それは、まあ『慈悲の心』だろうし、また『一隅を照らす気持ち』ではないでしょうか」とお答えするのですが「それだと、目標値が大きすぎて、毎日どのように実践したらよいのか悩みます。もっと具体的に教えてください」と食い下がられました。
 孔子は子貢という弟子から「この一言なら生涯守るべき信条とするに足る、そういう言葉はあるのでしょうか」と問われて
 「それ恕か。己の欲さざる所は人に施すなかれ」と答えています。
 「自分がイヤなことは人にもしてはならんよ。それが恕ということだよ」という意味です。恕とは「思いやり」のことです。
 天台宗でいえば「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」ということになりましょう。
 思いやりがない人とは、人間関係をうまく築くことができません。
 では、具体的に「思いやり」とは何か。
 菜根譚では次の三つだといっています。
 人の小過を責めず。「小さな過失はとがめない。細かいことをグチグチ言っていては人は逃げていく」
 人の陰私を発かず。「誰しもふれて欲しくないことはある。それをあばいてはならぬ。そっとしておく」
 人の旧悪を念わず。「古い過ちは忘れてやる。いつまでも、あのときにおまえはこうした、ああしたとしつこくしていれば人間関係は終わりである」
 結局「自分がされてイヤなことは、人にしてはならん」ということに尽きるでしょうか。

仏教の散歩道

負けるが勝ち ひろさちや

 子どものころから、「負けるが勝ち」と教わってきました。分かるようで分からない言葉です。負けたところで賞金が貰えるわけがないのに、どうして負けたほうがいいのだろうか……と、首を傾(かし)げるばかりです。
 そういえば、美空ひばりが、
 《勝つと思うな 思えば負けよ》
 と歌いました(『柔(やわら)』関沢新一作詞、古賀政男作曲)が、あれもわたしには意味不明でした。「あなたが勝とうと思った瞬間に、もうあなたは負けているのだ」といった意味なのか、あるいは「勝とうと思わないほうがよい。思うのであれば、負けようと思うべきだ」の意味なのか。まあ、たぶん前者のほうでしょうね。
 そこで『大辞林』をひいてみたら、「負けるが勝ち」には、
 《むりに争わず、一時的に相手に勝ちを譲ることが結局は勝つことになる》
 といった解説がありました。これを読んで、わたしは、〈なんだ、それなら結局は勝ちたいのだ。勝とうとしているのだ。その勝つための方策として、一時的な敗北もあり得ると言っているだけにすぎない〉と思いましたね。ずる賢いやり方です。
 そう思ったとき、わたしは、「負けるが勝ち」に対する、もう一つ仏教的解釈を思いつきました。それは、世間の解釈とは、まったく違ったものです。
 世間の人は、みんな、〈勝ちたい、勝ちたい〉と思っています。そして、勝つために歯を食い縛って努力します。それは、つまりは相手をやっつけたいのです。相手を敗北者にしないことには、自分は勝者になれません。
 そして、勝者は一人で、敗者は大勢います。最終段階においては一対一の闘いになるかもしれませんが、その段階に達する前には、大勢の競争参加者を蹴落とさねばなりません。しんどいことです。と同時に、相手をやっつけるためには、自分の人格も相当に傷ついているのです。この点を、世の競争讃美者は忘れています。他人の敗北を願う人間のあさましさに気づいていません。
 そこで仏教者は、「負けるが勝ち」と考えます。
 といっても、わざと負けようとするのではありません。勝つことに努力するのですが、その背後に、
 ︱負けたかてかめへんやんか︱
 といった気持ちがあります。なんだか急に大阪弁になりましたが、わたしは、その気持ちが大事だと思います。自分が敗者になっても、競争の勝者を祝福してあげられるだけの気持ちを持つこと。そのような気持ちを持てたときが、その人は「人生の勝者」になったのだと思います。
 ですから、「負けるが人生の勝ち」です。そして、勝つのであれば、「人生の勝者」になりたいですね。それが仏教においての「負けるが勝ち」だと思います。

カット・酒谷 加奈

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