天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第160号

「恵心僧都一千年御遠忌御祥当逮夜法要」を厳修

 祖師先徳鑽仰大法会は第2期に入り、去る6月9日には「恵心僧都一千年御遠忌御祥当逮夜法要」が比叡山延暦寺阿弥陀堂において、厳かに執り行われた。(写真)大導師は森川宏映天台座主猊下がつとめられ、各教区宗務所長出仕のもと、宗内からは門跡寺院門主、宗機顧問、宗議会議員をはじめ役職者、寺院住職ら多数、宗外からは天台寺門宗、天台真盛宗などの縁故教団の諸大徳が随喜した。

 恵心僧都源信は、浄土念仏の思想を体系化し組織化し、その実践についても論じた『往生要集』を著したことで知られる。比叡山横川の恵心院に住んでいたことから〝恵心僧都〟と呼ばれた。天台の浄土観を比叡山において展開した恵心僧都の教えは、法然上人や親鸞聖人などに多大な影響を与え、浄土系各宗に受け継がれた。その経緯から恵心僧都は日本浄土教の祖といわれている。そうしたことから、今回の恵心僧都一千年御遠忌を迎えるにあたり、5月から6月に亘って浄土系の各教団による報恩法要が厳修されている。
 同日の御祥当逮夜法要は、午前11時より延暦寺阿弥陀堂において、森川天台座主猊下を大導師に、延暦寺一山、各教区宗務所長の出仕により奉修された。
 法要を終えるに当たって木ノ下寂俊祖師先徳鑽仰大法会事務局局長(天台宗宗務総長)は「恵心僧都は『往生要集』を著し、浄土念仏の思想を実践するとともに、その教えからは、真盛上人、法然上人、親鸞聖人など多く浄土の教えを信奉する高僧を輩出した。この5月、6月にかけて浄土系各教団による恵心僧都を鑽仰しての報恩法要が厳修された。これを通じて浄土教団との交流が益々親密となることを願っている」と挨拶をした。なお、翌10日の御祥当には、大講堂において「恵心僧都一千年御遠忌御祥当恵心講」が厳修された。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

そこにたどりつこうとあせってはいけない。
「そこ」など、どこにもないのだから。
本当にあるのは「ここ」だけ。
今という時にとどまれ。

アメリカ先住民の言葉

 子どもの時は、「今」を楽しむとか、「今」を自覚的に生きるなどといった思いもなく、ただ、瞬間、瞬間に喜怒哀楽を感じて生きていたように思います。ただ、子ども時代は大人になるまでの過程であり、「大人になってからが、本当の人生なんだ」と、何となく思い込んでいたようです。つまりは「予習の時間」の意識だったんですね。
 ところが、その思考が習慣的になってしまい、青年期になっても壮年期になっても、「本当の人生」は、まだ先だという意識から抜けられないままとなってしまう人も多い。だから、いつまで経っても「今を生きる」ことができない人が巷(ちまた)には溢れています。
 済んでしまったことを思い起こして、「ああすれば良かった、こうすれば良かった。こうしておいたら、今みたいなことにならなかったのに…」と過去を振り返り、「きっと来るであろう良き日のために」今はそのために生きよう、などと思うのです。だけど本当は、人生というものは、「今」「ここ」にしかないのですね。「人生とは過程である」といった人がいましたが、これは、人生が「今」の積み重ねであるということだと思います。
 「邯鄲(かんたん)の夢(ゆめ)」と言われる故事があります。中国の戦国時代の趙の都市邯鄲で、盧生という貧しい若者が、呂翁という道士から不思議な枕を借りて一眠りしたときに、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て立身出世を極めたり、悲惨な目に遭う体験をします。しかし、それは実際には店の主人が炊いていた黄梁もまだ煮え切らないような、ごく短い間の夢にすぎなかったというものです。
 現実の人生もこの夢のように一瞬で過ぎ去るものだとしたら、毎日毎日を「人生最後の日」と思って「今を生きる」しかないですよね。

鬼手仏心

レスター優勝

 イングランドが沸いている。
 1部リーグのレスターが優勝したからだ。
 イングランドは「サッカーの母国」だが、レスターはチームが出来てから133年目にして初めて優勝を果たしたのだ。
 イングランド1部リーグは、世界でも有数の「金持ちチーム」が寄っている所である。金に糸目をつけずに優秀な選手を世界から引き抜いてくる。
 レスター市は人口約33万人の小都市である。その貧乏チームでは、とても太刀打ち出来るどころの話ではなかったのだ。
 2季前まで、レスターは2部リーグだった。主力を果たしたFWジェイミー・ヴァーディ選手は、かつてプロの育成組織をクビになり、一時はアマチュアでプレーしていたという。
 スーパースターも目立った選手もいない。カネもない、エリートもいない、そのチームが創設以来、133年目にして強豪チームを押さえて初優勝したのだから、地元はもちろん庶民は大熱狂だ。
 なにしろ英国のブックメーカー(公認賭け屋)のレスター優勝の倍率は、5000倍。「ネス湖の怪獣ネッシーが捕獲される」倍率が500倍というから、事実上「不可能」といわれていたに等しい。
 レスターは日本の岡崎慎司選手が所属するチームでもある。選手一人ひとりが出来ることを着実に実行し、ボールを持った相手にしつこく、しつこく肉薄し、ひとたびボールを奪うと、間髪おかず相手ゴール前に迫った。
 レスターの優勝は、チーム全員が一丸となったことにあるといわれている。
「天の時は地の利に如かず。 地の利は人の和に如かず」という言葉が頭に浮かぶ。「人が必死になれば、勝利の女神は微笑むのだなぁ」と思った。

仏教の散歩道

わたしだけは・・・・・

 わたしたちは、人を殺してはならないと教わっています。しかし、実際には、日本の国家は死刑制度を存続させ、犯罪者を死刑にします。死刑は、国家による殺人です。だとすると、国家は人を殺してもよいのでしょうか!?
 また、戦争の場合は、兵士は敵兵を殺すことが認められています。いや、むしろ敵兵を殺すことが奨励されているのです。とすると、人を殺してはならないというのはまちがいで、場合によっては人を殺してよいということになります。
 同様に、嘘をついてはいけないというのも本当ではありません。現実に多くの政治家が嘘をついて国民を騙し、企業の経営者がさまざまに嘘をついていることは、新聞やテレビで報道されています。また、市民の生活においても、「嘘も方便」といって、目的さえ正しければ、その目的を達成するための手段としての嘘をつくことが容認されています。たとえば父親ががんになったとき、その父親をがっくりさせないために、子どもが、
 「お父さんはがんじゃないよ。良性の腫瘍だよ」
 と嘘をつくことは、むしろあたりまえに思われていました。もっとも、この問題に関しては、最近はちょっと事情が変わってきました。しかし、家族のあいだで、相手を失望させないように嘘をつくことは、それほど悪いこととはされていないようです。
 だとすると、わたしたちは子どもに、
−人を殺してはならない−
−嘘をついてはならない−
 と、頭ごなしに教えることは、まちがった教育ではないでしょうか。それだと、国家がやっている殺人行為や、大企業がやっている欺瞞の行為には頬被(ほおかぶ)りして、弱い庶民をいじめることになりそうです。
 わたしはむしろ子どもたちには、こう教えるべきだと思います。
 「世の中の人には、自分の利益のために他人に嘘をついて騙すことが多い。また、相手を庇うために嘘をつくこともある。そしてまた、人を殺す者もいる。けれども、あなたは、人を殺さないでほしい。また、どんなに苦しくなっても嘘をついて逃げないでほしい。あなたは仏の子なんだから、それができるはずだ」
 わたしたちは、ややもすれば、多くの人が嘘をついているから、自分だって少しぐらいの嘘をつくことも許されるだろうと考えてしまいます。つまり、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といった考え方です。でも、それは仏教の精神ではありません。仏教の精神は、赤信号なのに、みんな渡っているが、ぼくは渡らない−というものです。
 みんなに引き摺(ず)られないで、わたしだけはこうするというのが、仏教の精神です。でも、それがいちばんむずかしいことですね。

カット・酒谷 加奈

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