天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第158号

平成28年熊本地震
熊本県・大分県で寺院被害相次ぐ
対策本部を設置し救援物資を配送

4月14日に発生した「平成28年熊本地震」で、天台宗は、4月17日、木ノ下寂俊宗務総長を本部長とする「平成28年熊本地震天台宗災害対策本部」を設置した。同対策本部活動のための予算措置についての臨時宗議会が4月27日に招集され、被災者救援のための臨時会計設置が承認された。また、同対策本部では、支援活動を一宗挙げて行うため、義援金募金のお願いを18日に全教区寺院に発送し協力を求めた。

 14日の熊本地震発生以来、天台宗では、社会部(角本尚雄部長)を中心に宗内寺院の被害状況把握に努めてきた。
 震源地に近い延壽寺(藏原恒海住職・熊本市南区)では、山門が倒壊し、鐘楼堂に倒れかかっている。また、屋根瓦も多数落下している。
 また、阿蘇市の西巖殿寺(鷲岡嶺照住職)では、14日の地震では目立った被害はなかったが、16日未明の地震により近辺で崖崩れが発生し、交通が遮断され、一時孤立した。
 熊本市南区にある角本社会部長の自坊・長壽寺も大きな被害を受けた。熊本地震発生当時、角本部長は公務のため宗務庁(滋賀県大津市坂本)で勤務していたが、急遽帰院。断水と余震の揺れのひどさで、寺族ともども車両で寝起きしたという。被害の最も甚大であった益城町にある常樂寺(小㟢晃善住職)からは、参道に大規模の落石があり、寺に続く林道も土砂や落石で塞がれて寺に近づけない状態との報告が来ている。
 九州西教区(甘井亮淳宗務所長)は、16日朝には寺院を拠点にして、水やパンなどを被災者に配布。また阪神淡路大震災を経験した兵庫教区仏青も18日に現地に到着。被災者に水や下着を配った。長壽寺では、九州西教区仏青の配布する薬やウェットティッシュなどが被災者に直接手渡された。対策本部も19日に水や食品を九州西教区宗務所に配送。20日には、対策本部から阿部昌宏天台宗総務部長ら担当者が同教区を訪れ、今後の支援方法を協議した。
 今後は、ライフラインや物資の供給などが回復しつつある長壽寺より西巖殿寺に支援拠点を移し、全国からの支援物資を重点的に輸送、地区社会福祉協議会と連携しながら、地区避難所へ物資を支給する等を決めた。現段階(20日前後)では、支援活動体制も流動的であり、今後はその動向を見ながら支援活動を行うことになる。
 20日に宗務庁に復帰した角本部長によれば、余震も多く、今も夜は車の中で過ごす人が多いという。
 以上、被害状況などは、天台宗社会部調査による(4月20日現在)。
 被害の状況は7面に掲載。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

Aは黒、Eは白、Iは赤、
Uは緑、Oはブルー
母音たちよ、
何時の日か汝らの出生の秘密を語ろう

『母音』アルチュール・ランボー

 この世の中に、文字に色を感じる人がいるというのです。
 これは、決して超能力現象やオカルト的な話ではありません。「共感覚」という、れっきとした科学的な話です。
 「共感覚」とは、一部の人にみられる特殊な知覚現象(ある刺激に対して、同時に複数の感覚が生じる現象)のことを言います。
 文字をみると色を感じたり、音を聴くと色を感じたり、あるものに触れると味を感じたり、その具体例は様々です。「絶対音感」を持つ人の中には、音を色で識別している人もいるとのこと。
 なぜこのような現象がおこるのか、現在も研究が続けられていますが、これという決定的な説はまだないようです。感覚というのはあくまで主観的なものなので、それを客観的事実に基づいて証明するというのが難しいからです。
 ですので、共感覚を科学的な現象とせず、精神異常であるとか幻覚だとか言って、一笑に付してしまう人もいます。自分が感じることができないものを、人はなかなか信じることができないのです。
 表題の詩は、あくまで天才詩人のイマジネーションが生み出したものだという人もいます。実際、ランボーが共感覚の持ち主であったかどうかは定かではありません。ですが、後年、共感覚とされる人が、ランボーが感じたものと同じ色をアルファベットに見て取ることが出来たというのです。
 自分が知覚しているものが「絶対的な普遍の真理」であるという保証はないのです。「自分が感じることができない」ものが、ひょっとすると「自分以外のみんなが感じることができる」ものなのかもしれません。もちろん、逆もまた然りです。

鬼手仏心

心月輪   天台宗参務財務部長 田中 祥順

 かつて「大きいことはいいことだ」という歌が流行りました。
 高度経済成長の頃だったと記憶しています。
 「誰よりも、速く、高く、遠くへ」というスローガンもありました。
 その思想?の神髄は、「今のままあるのはいけない、自分はどんどん成長して他を圧するのが正しい」ということでした。
 しかし、そのことは「どんどん取り込み、どんどん膨張し、不要なものはどんどん捨て去っていく」ということと同義でもありました。
 古いモノ、汚れたモノ、時代遅れのモノを大事にする人は「変人」扱いされたものです。
 その当時「大量生産、大量消費」は口当たりの良い言葉でしたが、今ではその「幸せの基準」が、私たちの心を呪縛しているような気がしてなりません。
 「モノ、カネがないのは不幸である」という考えが「今だけ、カネだけ、自分だけ」という風潮に結びついているのではないでしょうか。
 子ども達と手まりで遊んだことで有名な僧・良寛さんは、友人が使い古してボロボロになった鍋蓋(なべぶた)を二つに割って燃料にしようとした時、その蓋に「心月輪」と書いたというエピソードが残っています。長年使い込んで古くなった鍋蓋の「心は丸く月のように清らか」だというのです。ボロの蓋を「ありがたい、もったいない」と感じる感性は素晴らしい。
 私の知人である市会議員は「私は大海原を照らす灯台よりも、足下を照らすチョウチンになりたい」と挨拶して、多くの人の共感を集めました。
 多くを求めるのではなく、脚下照顧(きゃっかしょうこ)して堅実に生きる姿勢が必要だということでしょう。
 良寛さんには「焚くほどは風がもてくる落葉かな」という句もあります。

仏教の散歩道

世俗の欲望・天上の欲望  ひろさちや

 かつてインド人と話していて、・・といった語を英語にすれば何になるか、ちょっと迷ったことがあります。それで和英辞書を見ると、
 -worldly desires(世俗の欲望)-
 とありました。なるほど煩悩は世俗の欲望です。低俗で、貪欲そのもので、ぎらぎらした欲望です。
 で、そのとき、わたしはこの「世俗の欲望」の反対を考えました。それは、英語でいえば、
 -heavenly desires(天上の欲望)-
 になります。そんな英語が日常使われているかどうかは知りませんが(たぶん、日常的には使われていないと思われます)、「世俗の欲望」の反対概念としては「天上の欲望」になりますね。そう考えたとき、わたしはうれしくなりました。
 世俗の欲望は競争原理にもとづく欲望です。現実の社会(世俗)が競争社会ですから、そこで欲望を充足させるためには、他人に勝たねばなりません。わたしが一流大学に合格する、大企業に就職できる、そのためには誰か一人は不合格にならねばなりません。他人を蹴落とすことによって自分の欲望を満足させることができる。それが世俗の欲望です。
 と同時に、世俗の欲望には歯止めがありません。最初に年収一千万円を目標にしていた人が、その一千万円が得られるようになっても、
 〈いやいや、これじゃあ満足できない。やはり年収三千万円ぐらいは欲しい〉
 と、欲望が膨れあがります。〈もっと、もっと〉となるところが、世俗の欲望の恐ろしいところです。
 したがって、世俗の欲望とは、ブレーキのない、アクセルだけの欲望ではないでしょうか。こんな欲望でもって人生を生きていては、その人は暴走し、崖に衝突するに違いありません。
 それ故、わたしたちは、ちゃんとブレーキのついた欲望、すなわち天上の欲望を持つべきです。
 天上の欲望とは、他人の不幸を願わない欲望です。
 といっても、現在の日本は競争社会になっていますから、自分が部長になれば、誰かが部長になれなかったのです。結果的には他人との競争に勝ったことになりますが、しかし最初から〈あいつを蹴落としてやろう〉と思ってする競争ではありません。他人との競争意識を持たず、のんびり・ゆったり・ほどほどに生きていて、それで得られる幸せに感謝する。それができるのが天上の欲望です。
 仏教は欲望を否定するかのように思われています。たしかに過度な世俗の欲望をもつことはいけないとします。しかし天上の欲望については肯定しています。その点を誤解しないでください。

カット・酒谷 加奈

ページの先頭へ戻る