天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第157号

祖師先徳讃仰大法会
根本中堂いよいよ平成の大改修に
6月に座主猊下を名誉団長に訪中団

 天台宗の第135回通常宗議会において、祖師先徳鑽仰大法会の無事円成祈願と同大法会記念事業である「根本中堂大改修」の安全祈願法要が厳修されることが発表された。同法要は、6月中旬に中国・国清講寺で森川宏映座主猊下を大導師に執り行われる。

総本山延暦寺の根本中堂は、本年4月から10年間に亘る大改修に入る。4月1日には、天台宗、延暦寺内局の出仕により「根本中堂大改修安全祈願法要」が厳修される。
 また4月24日には「根本中堂大改修 常楽院法流・玄清法流 地鎮合同法要」が根本中堂中庭にて厳修される。常楽と玄清の法流が時空を超えて地鎮合同法要を営むのは1200年ぶりである。
 現在の根本中堂は江戸時代1642年に再建された。前回に行われた大規模改修は1955年で、61年ぶりの大改修となる。
 前回は、柱などの骨組みを遺して屋根や壁を解体したのち組み直す「半解体修理」の方法がとられたが、今回は根本中堂の屋根の全面葺き替えや堂宇内部の塗り替え、また柱や床などの老朽化した部分を取り替えるなど大規模なものとなる。
 現在天台宗と延暦寺とはこの大事業完遂のため、天台宗徒および檀信徒に勧募を呼びかけている。
 木ノ下寂俊天台宗宗務総長は「根本中堂は伝教大師が人々の幸せを願って建立された堂宇である。世界文化遺産にも指定されおり、世界の人々の幸せと、安寧、平和を祈り、大師の御心を発信する根本道場である。昭和の大改修以来60余年を経て、積雪や湿気により老朽化が進み今回大改修を迎えるに至った。時あたかも祖師先徳鑽仰大法会奉修中であり、記念事業として天台宗挙げてこの大事業に協力して参りたい。宗徒各位、また有縁の各位におかれては是非ご懇志特別寄付金のご協力をお願いしたい」と述べている。
 祖師先徳鑽仰大法会では、6月に祥当を迎える「恵心僧都一千年御遠忌」において9日に逮夜法要、10日に恵心講二十五三昧式法要が大講堂にて厳修される。
 また5月から6月にかけては天台真盛宗、浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派、西山浄土宗の「浄土宗西山三派」また「浄土真宗本願寺派」「真宗大谷派」「時宗」「融通念仏宗」の浄土系教団により報恩法要が厳修されることになっている。 

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。

「春の朝」 ロバート・ブラウニング

19世紀の英国の詩人、ロバート・ブラウニングの「春の朝」という詩は、上田敏訳の海潮音で紹介され、日本でもよく知られるようになりました。その最終の行が右に掲げた一行です。
 その前は「時は春、日は朝(あした)、朝は七時、片岡(かたをか)に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、」とあります。
 春。早朝ののどかな田園風景が目に浮かぶ詩ですね。自然環境の違いがあったとしても、こういう、穏やかな時が流れる原風景は、世界のどの地でも、どの時代でも存在するでしょう。心がやすらぐ時間であり、空間です。
 ただこれは、人間という存在から見た光景です。あくまで人間の眼を通しての感慨なのです。自然界では、一刻一刻、生き物たちの間で命のやりとりがありますが、人間にはのどかな情景なのです。
 他方、全ての生き物の頂点に立つ人間の世界を見ると、中東やアフリカ、そしてヨーロッパと、戦闘やテロが打ち続き、人間が創り出す惨事は絶えることはありません。そして、人間の個別の生活の上でも、争い事は絶えません。ですから、人間世界においては、絶え間ない争い事があることこそ常態ともいえます。逆説的な意味で「すべて世は事も無し」なのかも知れません。
 しかし、植物や動物など、命のやりとりが日常的にある自然界は、それが「生きていく」上での必要なことです。人間世界での殺戮は、そうではありません。不必要な殺戮があまりに多いのです。たとえ人間世界から見た光景とはいえ、詩にあるような「すべて世は事も無し」という日が訪れることを祈るばかりです。

鬼手仏心

喜足 天台宗参務社会部長 角本 尚雄

 現代は、不機嫌に生きている人が多い。
 それは、自尊感情を満たされることを過剰に求める人が増えたからだと思われる。
 自尊感情(プライド)自体は、人間にとって大事なものである。
 問題は「過剰に求める」という所にある。
 それが進むと「俺は、こんな仕事をするような男じゃない」ということになり、「安すぎる給料で不当な扱いを受けている」ということになったりするのである。
 自尊感情が満たされるためには「他人からの評価」というものが最も重要である。
 しかし、実力が伴わないから、それは難しい。
 仕方がないので、自分で自分を誉めるというようなイタイ行為に走る人も出てくる。が、そんなことをすれば陰で笑われるだけである。
 また、充分に社会的地位や収入のある人でも恨みがましい人はいる。自分は評価されていないと思う人は例外なく誰でもそうなる。
 そうして自分が求めている過剰な評価を得られない人の多くは、しだいに他者を羨んだり恨むようになる。
 それは限りもなく幻想を追い求めることと同義である。
 いったんその感情に溺れれば、もう二十四時間、逃れられない。地獄の苦しみになる。
 仏教では「少欲知足」を教える。
「少欲」とはいまだ得られていないものを欲しないことである。「知足」とはすでに得られたものに満足し心が穏やかであることだ。三蔵法師(玄奘)は「知足」をさらに一歩進めて「喜足(足るを喜ぶ)」と訳したという。
 この精神こそ現代に求められるものだと思う。

仏教の散歩道

「生活力」と「人生力」 ひろさちや

 わたしは「人生」と「生活」とは違っていると思います。英語でいえば、両者とも〝ライフ〟になりますが…。
 世の中でバリバリ活躍し、立身出世をする。金もジャンジャン稼ぎ、大富豪になる。そういう人が、いわゆる「生活力」のある人です。もちろん、この生活力のある人は、常に、
 −あくせく・いらいら・がつがつ−
 と働いています。そうでなければ出世もできないし、大金持ちにはなれません。
 それに対して、「人生の達人」は、きっと、
 −のんびり・ゆったり・ほどほど−
 に暮らしているのでしょう。それほど金持ちではありませんが、ほどほどに金があります。そして、のんびりと、ゆったりと、家族で笑顔で暮らしています。それが幸福です。〝人生力〟なんて言葉はありませんが、しかし〝生活力〟に対しては、人生の達人は「人生力」に秀でています。それには異論はありませんよね。
 では、「生活力」のある人と、「人生力」のある人と、どちらがすばらしいのでしょうか?あなたであれば、どちらを理想としますか?
 たぶん現代人は、「生活力」のある人のほうを「良し」とするでしょう。
 その理由は、「生活力」を百点満点、「人生力」を十点満点で査定し、両者を加算するからです。たとえば、「生活力」が九〇点、「人生力」が三点の人と、「生活力」が五〇点、「人生力」が六点の人とを比べると、前者が九三点、後者が五六点になるからです。
 だが、これを掛け算にするとどうなりますか?すると前者は二七〇点、後者が三〇〇点になり、「人生力」のある人の方が上になります。
 じつは、昔の人は、「生活力」のほうを〝才能〟と呼び、「人生力」のほうを〝人格〟と呼んでいました。いくら才能が九〇点でも、人格が三点であれば、あまり高くは評価しなかった。それが現代では、才能ばかりがもてはやされて、人格(人生力)のほうは二の次に置かれてしまった。そういう風潮になってしまったのです。悲しいことだとわたしは思います。

 わたしが言いたいことは、仏教は「生活力」を教えるものではなく「人生力」を教えるものだ、ということです。仏教を学んで、あなたが金持ちになれるわけではなく、また立身出世ができるわけではありません。そのためであれば、経営学でも学べばよいでしょう。
 仏教を学ぶ目的は、あなたがあなたの人生を「のんびり・ゆったり・ほどほど」に生きれるようになるためです。つまり「人生力」の向上にあります。われわれが仏教を学ぶのに、そのことを忘れないようにせねばなりません。

カット・酒谷 加奈

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