天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第155号

第256世天台座主半田孝淳猊下の本葬儀を執行

昨年12月14日にご遷化された第二百五十六世天台座主半田孝淳猊下(叡楽心院天台座主探題大僧正孝淳大和尚)の本葬儀が、1月29日午後1時より天台宗務庁においてしめやかに執り行われた。大導師は、森川宏映第二百五十七世天台座主猊下がつとめられた。同日は宮内庁、天台宗、宗教界のほか、政財界からも多くの人々が弔問に訪れ、在りし日の半田座主猊下の遺徳を偲んだ。同日の参会者は約1200名であった。

  本葬儀では、天台宗を代表して小川晃豊天台宗宗議会議長が弔辞を捧げた。
 小川議長は「半田座主猊下は常に微笑みを絶やさず『大無量寿経』にある『和顔愛語』そのものの生き方をなさいました。常々『宗徒の皆様、檀信徒の皆様が嬉しい時には共に喜び、悲しい時には共に手を取り合って泣く、そんな人間座主でありたい』とおっしゃっておられました」と半田座主猊下の温かい人柄を讃(たた)えた。
 そして「東日本大震災発生直後には、天台座主として初めて被災地に赴かれ被害者家族に『みなさまは、ひとりではない』と励まされました。誠に尊いご生涯であったと存じます」と述べた。
 更に平成21年には天台宗の開宗千二百年慶讃大法会円成で訪中されたエピソードに触れ、「そのとき天台山国清講寺には、座主猊下揮毫による、天台宗と仏教は永久に不滅であるという意味の『天台宗永永流傳』の祈念碑が建立されました。
 誰にも優しく接され、世界平和を求め続けられた半田座主猊下の姿勢は、世界の宗教史に永遠に刻まれることになるでありましょう」と弔辞を捧げた。
 そして葬儀委員長の木ノ下寂俊天台宗宗務総長は
 「昨年12月1日に行われました天台宗全国一斉托鉢では、お元気なお姿で先頭に立たれ、恵まれない方々に、また衆生済度に邁進(まいしん)されておられましたのに、突然の御遷化は、私ども宗徒にとりましてまさに青天(せいてん)の霹靂(へきれき)でございました。
 原爆投下60周年にあたる平成17年には、フランス・リヨンで開催された世界平和祈りの集いで、山田恵諦天台座主猊下に続いて日本人で2人目となるファイナルセレモニーでのスピーカーに選ばれ、約2千人の聴衆を前に『人間が作りだした悪魔の兵器は、人間の責任で廃棄すべきだ』と強く訴えられ、参加者全員はスタンディングオベーションで猊下の提案を讃えました。
 全日本仏教会会長、印度山日本寺の竺主なども歴任されるなど天台宗に留まらず、全世界の仏教の師表と仰がれたのであります」と語り、さらに「私がご生前に座主猊下に最後にお会いしましたのは、昨年12月初旬に行われました住職親授式でございました。その時に、延暦寺執行様と私を前にして、猊下からは『住職は、寺という家族の中心であり長であります。だから天台宗と総本山は、本末一如となってその方々を大事にし、暖かく見守ってください』とおっしゃいました。そのことを拳々服膺(けんけんふくよう)しつつ今後の宗務に精励いたしてまいります」と挨拶した。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

疲れている人は堂々と疲れたい

「神も仏もありませぬ」佐野洋子

 

昨年、安倍内閣改造のニュースで、はじめて「1億総活躍社会」という言葉を聞いた時、このフレーズを思い出しました。
 絵本『100万回生きたねこ』の著者として有名な佐野洋子さんですが、絵本作家という優しいイメージの肩書きとは裏腹に、彼女のエッセイはかなり辛辣です。
 「日本中死ぬまで現役、現役とマスゲームをやっているような気がする。いきいき老後とか、はつらつ熟年とか印刷されているもの見ると私はむかつくんじゃ。こんな年になってさえ、何で、競走ラインに参加せにゃならん」。
 素直すぎる佐野さんの言葉にぎょっとしながらも、そこには「だれもかれも、十把一絡げにされてたまるか」という強い思いを感じます。
 「いつまでも元気で長生き」それは誰もが憧れることでしょう。
 けれど、いくら「生涯現役」を目標に掲げて頑張っても、いつまでも若さを保ち続けることは並大抵のことではありません。そうありたいと思いながらも、衰えた体力気力に流されたい時もあるでしょう。同世代の元気な人たちを引き合いに出されて「頑張れ頑張れ」とせっつかれ鼓舞されても、限度があります。
 そんな時、このフレーズは、まるで優しくポンと肩を叩かれたように、心に響くのではないでしょうか。
 佐野さんは言うのです。
 「意味なく生きても人は幸せなのだ、ありがたい事だ、ありがたい事だと、とヘラヘラ笑えて来た」。
 日々の生活の中で、「ねばならない」ことなんて、本当は何一つないのだと思うのです。元気はつらつで迎える日もあれば、疲れてどうしようもない日もある。そんな時は、孤軍奮闘するのではなく、堂々と「わたしは疲れた」と言って、ごろんと横になっても良いのではないでしょうか。 

鬼手仏心

慢心 天台宗参務 中島有淳

 ひとりの天女がいました。
 菩薩の説法を聞いて満足し、天の花をふりかけました。すると菩薩達の身体にふりかかった花は地に落ちましたが、声聞(しょうもん)たちの花は身体にくっついて地面に落ちません。神通力をもって振り落とそうとするのですが、花は落ちないのです。そこでその天女は長老シャーリプトラ(舎利弗(しゃりほつ))に言います。
 「大徳よ、この花を振り落としてなになさるのですか」。
 答えて言う。「天女よ、出家の身にふさわしくないからです」。
 天女は言う。「大徳よ、そのようなことをおっしゃってはなりません。なぜならこの花は法(真理)にかなったものです。花は考えたり分別したりしないのに、長老こそが思慮し、分別しているからです。長老が計らいをめぐらし分別するそのことこそ法にかなわないことです。長老よ、それを離れていればこそ、他の菩薩には、花が付着しないのです。恐怖を抱いている人にはその隙(すき)を悪霊が狙うでありましょう。生死におののく人には、色や声や香りや味や触れ合うことが、その隙につけ入ってくるのです。それらを断っている人の身体には花が付着しないのです」。
 舎利弗が問う。「天女よ、愛欲と怒りと愚かさを離れるからこそ解脱があるのではありませんか」。
 天女は答えて、「愛欲と怒りと愚かさを離れて解脱するというのは、慢心ある者に対して説かれたのです。慢心のない者においては、愛欲と怒りと愚かさの本性が、そのまま解脱なのです…」。
(『維摩経(ゆいまきょう)』第六章・天女の物語より)
 これは仏教の奥深さをうかがい知る物語です。懺悔(さんげ)・発心(ほっしん)・精進(しょうじん)して、慢心の隙間を埋めるよう努めていかねばなりません。

仏教の散歩道

仏教を利用するな!

 仏教の講演会のあとで、ときに講師控室に質問に来る聴講者がいます。たとえば、娘が妻子のある男性と付き合っていて、親が忠告した。そうしたら娘が自殺してしまった。それでわたしは苦しくてならない。どうしたらこの苦しみを軽減することができるでしょうか…?そういった質問です。
 そこで、あるときわたしは逆にこう質問しました。
 「あなたは、何のためにこの仏教講演会にやって来られたのですか?」
 「それは、わたしの悩みを少しでも解決するためです」
 「ああ、そうですか。あなたはたんに仏教を利用したいのですね。仏教を学びに来たのではありませんよね」
 「……」
 相手はきょとんとしています。
 わたしは説明します。
 たとえば、わたしが病気になって病院に行きます。そのとき、わたしは自分の病気を治してほしいと願っています。それは、病院、すなわち医学を利用しようとしているのです。別段、わたしは医学を学びたいのではありません。医学の理論はどうだっていい。ただわたしの病気を治してくれれば、その医者は「いい医者」なんです。
 仏教はそれと同じでしょうか?仏教の教え(理論)なんてどうでもいいので、ただわたしの悩みさえ解決してくれればいい。そういう考え方は、つまりは仏教を「利用」しようとしているのです。そうではありませんか?
 けれども、そんな態度でいると、あなたはインチキ宗教に引っ掛かってしまいますよ。儲けよう、儲けようと思っている人が詐欺師に引っ掛かるのと同じで、なんとかして悩みをなくしたいと思っている人が、インチキ宗教に引っ掛かって大枚(たいまい)を教団に捲き上げられるはめになります。
 「だからあなたは、仏教を利用しようとしてはいけません。仏教を学ぼうとしないといけないのです」
 わたしはそのように答えました。
 では、仏教を学ぶということは、どういうことでしょうか?
 釈迦の教えは、つまるところ「一切皆苦」に尽きます。この世の中は苦であり、われわれの人生は苦なんです。ということは、わたしたちの悩み、苦しみはなくならないのです。もしも苦しみをなくすことができたら、釈迦の教えた「一切皆苦」が嘘だということになります。
 それ故、苦を軽減させたり、なくすことはできません。わたしたちは、自分が直面した苦しみにしっかりと向き合い、それに耐えねばならない。つまり、しっかりと苦しめばいいのです。そのように分かるのが、わたしは仏教を学ぶことだと考えています。

カット・酒谷 加奈

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