天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第154号

第二五七世天台座主に森川探題がご上任

昨年12月14日に半田孝淳第二百五十六世天台座主猊下のご遷化に伴い、森川宏映探題大僧正(延暦寺一山眞蔵院住職)が、第二百五十七世天台座主に上任された。
 森川新座主猊下は、大正14年10月22日生まれの90歳。比叡山の山林保護を志し京都大学農学部を卒業ののち、若き時代は一貫して総本山延暦寺の営繕部(管理部)を中心に歩まれた。平成11年から7年間京都山科の毘沙門堂門跡門主をつとめられている。

森川座主猊下は、昭和39年に延暦寺営繕部長に就任されたのを皮切りに、同部長を通算三期つとめられた。「総本山の営繕管理を今日の軌道にのせた第一の功労者は、森川座主猊下である」といわれるゆえんである。
 「営林関係には通算で25年携わりました」。
 その後、比叡山高等学校校長(16年)、延暦寺学園長(3年)、奥比叡ドライブウェイ社長(4年)などを歴任されている。
 平成19年、天皇皇后両陛下が延暦寺に行幸啓された。その時には、根本中堂前で先導役を務められた。
 天台宗が平成24年4月から10年間にわたって奉修している祖師先徳鑽仰大法会の一環として、昨年から特別授戒会が厳修されている。トップをきって始まった岡山教区では、天台座主の名代としてお釈迦様からの戒を受者に取り次ぐ伝戒和上をつとめられた。近年は病気療養中だった半田座主猊下に代わり公務を務められることが多かった。
 開宗一千二百年慶讃大法会でも伝戒和上をつとめられた。当時は78歳。その時には「それぞれの心に残る授戒にしていかねば。そのためには私の魂を打ち込んでいきます」と熱い思いを語られていた。どのような仕事、どのような立場にあっても「魂を打ち込む」のが、これまでの森川座主猊下の姿勢である。
 平成26年には天台宗の基幹運動である「一隅を照らす運動」会長に就任された。(現在は総裁)
 その時には「『一隅を照らす運動』の団体会員、個人会員を増やすことで運動を活性化させたい」と具体的なビジョンを示された。一貫して実務のフィールドを歩んでこられた森川会長の面目躍如たるものがあった。さらに同年に開催されたサッカーワールドカップブラジル大会については試合結果よりも、日本のサポーターたちが、他者の残したゴミを黙々と拾う姿を称賛され「このような活動と意識こそが『一隅を照らす』ことである」と語られている。
 東日本大震災はもちろん、最近日本では突然の自然災害が多い。「不慮の災害に立ちすくむ人々に、いち早く手を差し伸べることこそ一隅を照らす運動の神髄です。法華経の信者だった宮沢賢治は『世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない』と述べています。そのような気持ちを持ち続けたい」。
 新しき天台座主猊下と共に、天台宗は新しい時代を歩み始める。

明けましておめでとうございます。
 森川宏映座主猊下におかれましては、昨年十二月十四日にご上任になられました。心よりお祝い申し上げますと共に、我々宗徒をご教導賜りますようよろしくお願い申し上げます。
 さて、祖師先徳鑽仰大法会につきまして、本年にご祥当を迎えます恵心僧都一千年御遠忌は、本年六月九日に一宗を挙げての御遠忌法要を厳修させていただきます。更に本年八月十八日には生源寺にて、例年の諸行事に加え「伝教大師御生誕一千二百五十年」慶讃の行事を計画し、宗徒・檀信徒とともに揃ってご生誕を慶祝いたしたいと存じます。
 根本中堂は、本年よりいよいよ本格的な改修工事に入りますが、その着工にさきがけて四月一日に「根本中堂大改修事業安全祈願法要」の奉修を計画いたしております。
 また昨年度より特別授戒会の奉修が始まりました。十一月五日に岡山教区、同二十五日には埼玉教区において厳修されました。結縁潅頂につきましては特別授戒会と同様に推進をお願いいたしております。どちらもひとりでも多くの檀信徒各位に受けていただけますよう、もって祖師先徳鑽仰大法会を大いに盛り上げていただきますようお願い申し上げ、新年のご挨拶と致します。                     合 掌

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事

万葉集  大伴 家持

これは『万葉集』全20巻4516首、最後の歌であり、奈良時代の歌人、家持が詠んだ最後の歌でもあります。なぜこの一首が最後に掲げられたのかはわかりません。
 また、万葉集の編者といわれる家持ですが、この歌のあと、家持には一首の歌も残っていないといわれます。
 家持42歳。都での政変に連座し、前年に左遷されて因幡の国守となり、迎えた正月に詠んだ歌だといいます。失意にあった時だったわけですね。
 その後、26年という年月を過ごし人生を終わるのですが、その間、一首も詠まず「歌わぬ人、家持」といわれたようです。
 歌の意味は「新しい年、初春の今日、この降る雪のように、良いことがますます重なっていきますように」といった意味でしょう。
 「年の初めの初春」は、「元日と立春が重なった日」の意味。旧暦の元日が立春と重なってめでたい日です。「今日降る雪」もお正月に降る雪ということで、これは瑞祥(ずいしょう)とされ、豊年の前兆といわれています。「いや重け吉事」は、「良いことが重なれ」ということ。
 ですから、この歌は、このように、良いことが重なって、「どうか今年一年、良い年でありますように」と祈る歌なのです。
 過ぎし一年、誰もが様々な出来事の善し悪しを思い起こし、その時の心情を反芻(はんすう)しますが、得てして悪いことの方を過大視してしまいがちです。ですから、「今年こそは良いことの積み重なる年でありますように」という気持ちになるのでしょう。
 技巧もなく、平易に、清々(すがすが)しい真っ白な年の初めを詠ったこの歌こそ、新しきスタートに相応しいという気がします。
 今年が皆様にとって良き年となりますように。

仏教の散歩道

奇妙な「買い物」の論理

昔、インドを旅行したときの話です。わたしはインドが大好きで、これまで三十回もインド旅行をしました。だが、二〇〇九年の三十回目のインド旅行を最後に、インドにかぎらず海外旅行はやめにしました。
 それはともかく、昔のインド旅行の思い出話を語ります。
 日本人は買い物が好きですね。それで旅行社の人も、日本人をお土産品の買い物に連れて行きます。あるとき、こんなことがありました。
 Aさんが日本円にして八千円の置物を買いました。そのあと、Bさんが同じ商品を六千円で買った。Bさんからそれを聞いたAさんは、血相を変えてインド人の店員に詰め寄ります。
 「俺に二千円を返せ!」
 彼は大声でそう言います。
 インド人の店員はポカンとしています。
 インド人にすれば、A氏の言い分は理解できないのです。あなたは八千円で納得して買った。それでいいではないか。わたしが他の人にいくらで売ろうと、それはあなたに関係のない話ではないか。あなたはあなた、彼は彼。インド人はそう言います。
 しかし、そのインド人の言い分は、A氏にすればよく理解できないようです。
 まあ、わたしには、インド人の考え方のほうがまともに思えますが、読者はどう思われますか?
 さて、問題は宗教です。
 わたしたちは、ときに、
 〈あの人は悪い人だ。仏(あるいは神)があんな悪人を救われるはずがない。あの人は地獄に墜(お)ちる〉
 と思ってしまいます。そして、自分自身については、
 〈わたしはそれほどの悪人ではない。そりゃあ、わたしにも、少しは悪い点はある。けれども、仏(神)に嫌われるほどの悪人ではない〉
 と思って、自分の救済は信じているのです。
 ところが、その人は、仏や神の救済がいかなる悪人にも及んでいることを聞かされると、善人(と思っている自分)が損をしたような気になります。
 おかしいですよね。ここに買い物の論理が働いているのです。自分が八千円で買った品物を他人が六千円で買えば、こちらが損をした気になる。それがおかしいのです。
 自分は自分、他人は他人ではありませんか。あくまでもわたしが仏に救っていただくのであって、その仏が他人(わたしが悪人と思っている人)を救われるか否か、それはわたしの知ったことではない。それを信じることができたとき、はじめてわたしが仏に救っていただけるのです。わたしはそう考えています。

カット・酒谷 加奈

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