天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第153号

7年に亘る特別授戒会始まる

 天台宗が平成24年4月から10年間にわたって奉修している祖師先徳鑽仰大法会の一環として、今年度から特別授戒会の奉修が始まった。毎年、4地区で1回ずつ、7年間勤められる。11月5日にはトップをきって岡山さくら祭典十日市ホールで、永宗幸信岡山教区宗務所長が奉行、村上行英副所長が戒行事となって、岡山教区の特別授戒会が執り行われた。岡山教区は、開宗千二百年慶讃大法会で「あなたの中の仏に会いに」のスローガンのもと展開された特別授戒でも平成15年に最初に授戒を執り行っている。同日は、来賓に葉上観行岡山教区宗議会議員、また木ノ下寂俊天台宗宗務総長も随行長として出席した。
 今回の特別授戒会では、天台座主の名代としてお釈迦様からの戒を取り次ぐ伝戒和上を総本山延暦寺の森川宏映探題大僧正が勤め、361名が戒弟(仏弟子)となった。

 天台宗では、今回の岡山教区授戒会を皮切りに、菩薩戒を授かる特別授戒会を祖師先徳鑽仰大法会の中心活動として、組織的に各教区、地域を挙げて進めていく。
 宗祖伝教大師が中国天台山から授かった大乗の菩薩戒の法脈は、代々の天台座主猊下に受け継がれてきている。伝教大師はすべての人々がこの菩薩戒を授かって菩薩の道を歩むことが日本の安泰につながり、人々の幸せにつながると確信されていたのである。
 天台宗が全教区に授戒を呼びかけるのは、開宗千二百年慶讃大法会に続いて2回目。
 同日の特別授戒会では、最初に説戒師を勤めた水尾寂芳延暦寺副執行から授戒の要点や心得が説かれた。
 水尾師は「授戒することで、それぞれの心にある仏性に光をあて、目覚めさせ、活動させることになる。仏性が動き出すことにより悪いことをつつしみ、良いことにつとめ、人のために尽くすという三つの菩薩の行動(三聚浄戒)に導く」と説明し「このお授戒によって、より良い社会(浄仏国土)のため、ともに菩薩の道を歩みましょう」と締めくくった。
 このあと参加者(戒弟)全員は、正授戒に臨んだ。
 森川伝戒和上は戒弟に向かい、伝教大師が中国で授かった十二門戒儀(開導資糧(かいどうしりょう)・懺悔諸罪(さんげしょざい)・発菩提心(ほつぼだいしん)・三帰三(さんきさん)竟(きょう)・請師乞戒(しょうしこっかい)・略問遮難(りゃくもんしゃなん)・正戒発得(しょうかいほっとく)・証明戒儀(しょうみょうかいぎ)・現相(げんそう)因縁(いんねん)・説示戒相(せつじかいそう)・広願修証(こうがんしゅしょう)・勧持浄戒(かんじじょうかい))を一つひとつ開き、順序立てて説示した。
 請師乞戒では、お釈迦様、文殊菩薩様、弥勒菩薩様、諸仏、諸菩薩を会場に迎え、伝戒和上を通して直々に戒を授かることを乞い願った。その後、戒弟全員に伝戒和上から「おかみそり」、羯磨(かつま)師の山本亮裕岡山教区高福寺名誉住職から戒体(仏舎利)が授けられた。(写真)
 そして正戒発得において、現代の菩薩としてこの戒を心身に保ち、日常生活に尽くすことを約束するかどうかの誓いの確認が伝戒和上から三度繰り返しなされ、その都度戒弟たちは合掌して「能く持(たも)つ」と唱和した。 

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 現在、「食べ物」には、料理する手間や客に対する料理人の心遣いよりは、「ことば」が重要な役割を果たすようになっています。極言すれば、多くの人びとは「食べ物」そのものではなくて、「食べ物」を包んでいる「ことば」を食べているとさえ言えるでしょう。

『食べる』  西江 雅之

 故西江雅之さんは、アフリカ研究の先駆者で、数十カ国の言葉を流暢に操って世界中を旅し、その土地の人びとの生活を研究した文化人類学者でした。
 本屋には「そばが美味しい店」「話題のスイーツ」等々「美味しい」店を紹介した本が並びます。テレビでは「評判の店」が毎日いくつも紹介されます。インターネットにおいては、「クチコミで評価が高い」お店が、全国津々浦々に渡り膨大な件数で出てきます。  そして、いずれも「美味しい」と紹介されれば、客はその店に殺到します。
 しかし、その中で本当に心から「美味しい」と自身の舌で納得できる店はどれだけあるのでしょうか。
 西江さんによると、「本物の味の通」という人は希少で数百人に一人だといいます。では「美味しい」ということは一般的にはどういうことなのでしょうか。それは「不味くなければ美味しい」のだそうです。
 不味いものは、即自分で判断できます。しかし不味くないものに関しては、場所の雰囲気や一緒に食べた人との関係や、その料理の名前などで、その人が感じる味は変化していくものだと西江さんはいいます。
 そういえば、2年ほど前に食材偽装事件が世間を騒がせました。有名ホテルがバナメイエビを芝エビと偽って提供し続けていたことが明らかになり、その後次々と他のホテルから高級レストランまで食材の偽装が発覚しました。
 その時、店側が発表するまで「この食材は表示と違う」と気づいた客はほとんどいませんでした。みな、店側の「ことば」に何の疑問も持たずに、高い代金を快く支払っていたのです。
 現在では、食材の偽装について世間の目はずっと厳しくなりました。それでも、私たちはいまだ「美味しい」という「ことば」に、踊らされているのは事実なのでしょう。

鬼手仏心

強烈なポーズ

 ラグビーワールドカップイングランド大会にて、日本は1次リーグB組初戦で24年ぶりに歴史的勝利を上げた。
 特に南アフリカとの対戦は、逆転を許しても、粘り強く得点を重ねて勝利をものにした。
 この勝利には、五郎丸歩選手の活躍が大きい。
 戦いが終わった今、話題となっているのは、五郎丸選手がキック前に取っていたポーズである。
 あの強烈なポーズは「ルーティン」と言われる。ルーティンとは習慣という意味だと解説で知った。
 いわばゲン担ぎでもあるらしいが、集中力をもたらす儀式でもある。
 もとは、イングランドのジョニー・ウィルキンソン選手が考案したポーズだという。
 ウィルキンソン選手は歴代ワールドカップ通算最多の249得点を記録した名選手。2000年代を代表するスター選手である。
 ウィルキンソン選手は、引退後に早稲田大学ラグビー部の臨時コーチを務めたこともあり、指導を受けたメンバーに五郎丸選手も含まれていた。
 が、真似しても、当初そんなに成果はあがらなかったというから、ポーズそのものに御利益はあまりなかったといえる。
 それに神通力を付与したのは兵庫県立大准教授の荒木香織メンタルコーチである。スポーツ心理学の面から「緊張が当たり前の状況でも、ただ蹴ることに集中できる」ように考案したという。
 緊張を緩和するポーズは色々ある。「合掌」も緊張を緩和するが、ヘッドコーチだったエディ・ジョーンズ氏がW杯でかけたハッパは「W杯は生きるか死ぬかの舞台。自分たちの中にある『鬼』を引き出せ」だったから、やはりメンタルポーズが合掌では、ちとまずかったかも知れない。

仏教の散歩道

仏から預かっている自分

 《「わたしには子どもがいる、財産がある」と思いつつ、そのために人は悩み苦しむ。だが、自分ですら自分のものではない。どうして子どもや財産が自分のものであろうか》
 これは、原始仏教聖典の『ウダーナヴァルガ』(一・20)にある釈迦の言葉です。自分ですら自分のものではない−といった言葉に、わたしたちはどきりとさせられます。では、いったい自分は誰のものでしょうか?
 そりゃあね、もちろん、自分の命は自分のものです。名義上、法律上は、自分の命、肉体の所有権は自分のものとされています。
 けれども、その考え方が浅ましいと思います。
 わたしたちは、自分が自分のものだと思っていると、その自分を簡単に安い値段で他人に売り渡してしまいます。見てください、現代の給料生活者が安価に自分を会社に売り渡している姿を。自分を売り渡した結果、会社の奴隷になっています。会社の奴隷だから〝社奴〟と呼ぶのですね。あるいは〝社畜〟といいます。家で飼われているのが家畜であれば、彼らは会社に飼われているのです。
 あるいは、自分の命が自分のものだと思っていると、その命は容易に国家権力によって巻き上げられてしまいます。わたしが子どものころ、したがって戦前の話ですが、「おまえたちの命は天皇陛下のものだ。おまえたちは天皇陛下のために死ね!」と教え込まれてきたのです。国家権力はいわば無償で、わたしたちの命を買ったのです。
 だから、「自分は自分のものだ」といった思い込みが危険です。釈迦が言った、「自分ですら自分のものではない」といった立言が正しいのです。
 では、いったい自分は誰のものですか?それに対しては、われわれ仏教者は、
 −仏から預かっている自分−
 と認識すべきです。わたしという存在は、じつは仏のものであって、わたしたちは仏からそれをお借りしているだけです。そう思うべきです。
 そして、その点に関しては、室町時代の禅僧の一休が次のように言っています。
 《借用申す昨月昨日
 返却申す今月今日
 借り置きし五つのもの四つ かえし
 本来空にいまぞもとづく》
 借り置きし五つのものとは、地・水・火・風・空です。このうち地・水・火・風は四大と呼ばれ、人間の身体を構成する四元素です。そこで病気になると〝四大不調〟というのです。
 わたしたちは仏から借用している四大を仏に返却し、そして残った空に戻って行く。それが死だ。そう一休は言っているのです。
 わたしは、これこそが仏教者らしい考え方だと思っています。

カット・酒谷 加奈

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