天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第152号

「一隅フェスティバルin石巻」開催

 10月16日に、宮城県石巻市の東雲寺において、東日本大震災で被災した人々を支援しようという趣旨で「一隅フェスティバルin石巻」が開催された。同フェスは一隅を照らす運動総本部(横山照泰総本部長)が主催した。そして一隅を照らす運動企画運営委員会(見上知正委員長)や陸奥・茨城・栃木・埼玉・群馬などの各教区仏青が実働ボランティアとして盛り上げた。

 今回のフェスティバルのテーマは「祈りと癒しと笑いのひととき」。
 同日は、一隅を照らす運動総本部のほかに、実務に携わった仏青会員ら約50名が早朝から東雲寺に集結し、フェスティバル開催にむけ、それぞれの業務を担当した。
 開会式で横山総本部長は「もうあの大震災のことを思い返すのは嫌だという人もいるだろう。傷口に触れて欲しくないという人もいるだろう。我々も正直どのように接していいのか戸惑っている。ただ、我々は、皆さんに何とか秋の一日を楽しんで欲しいと思っている。亡くなった人のためにも、皆さんは一日一日を大事にして、未来に光明を見いだし、希望に向かって進んで欲しい。一隅を照らす運動総本部では今回初めて皆さんと触れあうイベントを催す。出来れば年に一度は触れあいの場を開催したい」と開催趣旨を述べた。
 このあと横山総本部長が導師となって、慰霊・復興祈願法要が厳修された。
 そして群馬天台雅楽会による雅楽公演ののち復興支援寄席として、仙若氏による太神楽、古今亭文菊師匠による落語が催され、会場は爆笑に包まれ、参加した人々は惜しみない拍手を贈るなど、終日大いに楽しんでいた。また一行写経、写仏を希望する参加者には仏青会員が指導した。
 最後に横山総本部長から内海正博石巻市社会福祉協議会常務理事に義援金30万円が寄託された。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

「自分に同情するな」

 『ノルウェイの森』村上春樹 

「悲劇のヒロイン」という言葉があります。
 「ヒロイン」というくらいなので、「彼」ではなく「彼女」は、人生を「悲劇」の中で過ごしている人なのでしょう。
 しかし、「あの子、まるで『悲劇のヒロイン』ね」と言う時、それは、「彼女はなんて可哀想なんだ」という意味ではなく、「必要以上に可哀想ぶって自己愛が鼻につく」といった嫌悪の気持ちが強く表れているように思います。
 人の同情を誘うように不幸自慢をする人がいます。そのような人は、例外なく嫌がられます。哀れみや同情というのは人が寄せるものであって、自分から求めるものではないからです。
 たとえどれほどの不運でも、それを自らアピールすると、「悲劇のヒロイン」と揶揄され、助けを得ることは難しくなってしまいます。
 「自分に同情するな」と、この小説の中で、主人公の先輩は言います。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」とも。
 「誰にも愚痴をこぼさず、甘えず、歯を食いしばって耐えているのだから、せめて自分で自分を哀れんでもいいじゃないか」。そんな風に思う人もあるでしょう。そんな人には「自分に同情するな」という言葉は厳しすぎるのでしょうか。
 自分に同情するという行為は、物事の本質から目を反らし、原因を他人のせいにして逃げていることにつながります。「私はちっとも悪くない」、そう言って、自分で自分の目を塞いでも、物事は少しも解決しないのです。
 どのような悲劇の只中にいても、哀れみを求めず、自分にも同情せず、なんとかして突破口を見つけ出してやろうという姿勢でいる人。そのような姿勢でいる人に、人は自ずと援助の手を差しのべたい気持ちになるのだと思います。

鬼手仏心

道徳教育

 近時、道徳の教科化が進められており、三年後の平成三十年には小学校、その翌年には中学校へと広がる。教科化になると、数値で評価される。
 これに対する批判とともに賛否が分かれる。私は教職時代に、授業改善の研究に取り組んだ時があった。それは、学習の思考過程において、善悪・良否の葛藤する中で、学習者自身に拮抗する場を設定する指導法である。
 戦前の「修身」は、数値で評価されていた。戦後七十年、軍国主義的徳目は忌避されて、さらに道徳の教科までなくなり、「道徳の時間」の名のもと、充分な時間も充てられなかった。
 団塊の世代で還暦を過ぎた、校長まで勤めたかつての教え子が中学校在学中に、私に「道徳の時間って何をするの?」と尋ねたらしい。私は「善いか悪いか自分で考える時間だよ!」と言ったそうである。還暦同窓会に招かれた席で、「卒業後長い時間が過ぎた今でも、先生はこう言ったと覚えている」という。まだ若かった未熟な教師なるが故にとは思うも、誠に汗顔の至りであった。
 『考える道徳』に指向されるそうだが、いじめへの対策や学力向上に繋いでほしいものである。
 道徳と宗教はどちらも人間の在り方を求めるものであるが、道徳は、「良い子をつくろう」とするのに対し、宗教は「良い子にもなれない子をも救う」ものであろう。
 何年か前、九十歳前後だった山田恵諦天台座主が、大津市民会館で行われた全国社会教育大会の講演で、宗教情操に基づく家庭教育の重要性を熱く説かれた言葉は、いまだ耳に残る。
 今日、人の命が軽んじられ、キレる子どもが問題となるのは、単に子どもに焦点を当てるだけでなく、その環境の歪みを作っている大人への警鐘と、厳しく受け止めたい。

仏教の散歩道

問題解決の方法

 釈迦世尊の説法は「対機説法」だと言われています。相手の機根(性質と能力)に合わせて教えを説かれました。あるいはまた、釈迦の説法は「応病与薬」とも呼ばれています。相手の病気に応じて、それにふさわしい薬を与えられたのです。
 だから、ちょっと怠けている人に対しては、釈迦世尊は、
 「そんなふうに怠けていてはいけない。もっとがんばりなさい」
 と教えられました。しかし、あまりにも努力過剰な人に対しては、
 「もう少し力を抜いて、ゆったりとしなさい」
 と教えられたのです。釈迦は、誰に対しても同じ教えを説かれたのではありません。したがって、Aさんに対する教えとBさんに対する教えとでは、ときに矛盾することもあります。それは釈迦の教えなんです。
 わたしたちが仏教を学ぶとき、このことに気を付けねばなりません。
 たとえば、わが子が学校でいじめにあったとします。あるいは交通事故で子どもを亡くして悲しんでいる親がいます。そんなとき、人々は、
 「どうすればよいですか?」
 と質問します。釈迦であれば、それぞれの人に、それぞれにふさわしい問題の解決方法を教えられるでしょう。でも、わたしたちにはそれは無理。人間はみんな性格も違い、能力に差があります。画一的に「こうしたらよい」といったアドヴァイス(忠告)を与えられるわけがありません。
 いいですか、百件のいじめがあれば、百の解決方法があるのです。千の悲しみがあれば、千の解決方法がなければなりません。いじめにあって、ある子には転校させるという解決方法が有効な場合もあります。あるいは登校を拒否する手もあります。しかし、それが逆効果になることだってあるのです。
 死者のために記念の文集を作る手もあります。しかし、そうすると、いつまでも死者を忘れられません。それよりは、「忘れてしまいなさい」といったアドヴァイスが有効な場合もあります。でも、「それじゃあ、どうしたら忘れることができますか?」と問われて、その方法にも百のやり方、千のやり方があるのです。結局は、自分にふさわしいやり方は、自分で見つけるよりほかないわけです。
 その場合、こんなヒントを参考にしてください。問題解決の方法には八万四千通りがあります。〝八万四千〟というのは、インド人が「多数」というときに使う数字です。わたしたちには八万四千通りの方法は考えられませんが、少なくとも八つぐらいの方法を考えてください。そしてその八つの解決方法のうち、自分はどの方法を採用しようかと考えるのです。
 わたしは、それが釈迦世尊の教えられた方法だと信じています。

カット・酒谷 加奈

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