天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第151号

関東・東北豪雨 茨城教区寺院で床上浸水

 9月の集中豪雨は関東・東北に甚大な被害を引き起こした。被害は天台宗寺院にもおよび、特に茨城教区第3部觀明寺(飯塚亮俊住職)では本堂が床上浸水した。
 被災直後から、天台宗寺院有志、茨城仏教青年会メンバー、他教区仏教青年会メンバー、天台宗防災士らボランティアが駆けつけて復旧作業に従事した。また、同月18日には天台宗より、角本尚雄社会部長、横山照泰一隅を照らす運動総本部長、また延暦寺より中山玄童副執行らが被災見舞い並びに被災状況の視察に赴いた。

 9月9日の夜から、激しい雨が降り続き、茨城県常総市福二町にある觀明寺には、鬼怒川の決壊と同時に、一気に水が押し寄せた。短時間で、水位は1㍍以上に。瞬く間に本堂は床上浸水し、危険を感じた飯塚住職は、寺族とともに同教区第4部の光明院に避難したという。
 12日、水を引くのを待って、教区寺院の有志住職らがボランティアとして觀明寺に駆けつけ、復旧の手助けを行った。被災直後、飯塚住職は「東日本大震災でボランティア活動をした住職達が直ちに駆けつけてくれた。檀家の中には大きな被害を受けた人も多い。一日も早い復旧を願うばかりです」と語っていた。
 18日には、天台宗から角本社会部長、横山一隅を照らす運動総本部長、延暦寺から中山副執行らが現地入りし、茨城教区第3部を中心に視察を行った。酒井貫全同教区宗務所長ら教区関係者の案内で、觀明寺、無量院(鈴木孝忍住職)、安楽寺(松永博英住職)などを訪れ、被災時の様子や被害状況などを聴取。また、被害のあった安楽寺の檀家を訪れ、お見舞いした。
 現地を視察したメンバーは「想像以上の被害状況に心を痛めた。今後も天台宗としてさらなる支援をしていきたい」と語った。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

サンキュー

木村次郎右衛門

木村次郎右衛門さんは1897年(明治30)京都府京丹後市に生まれ、2013年に116歳で亡くなりました。2012年には、ギネス・ワールド・レコーズ社より、世界史上最も長く生きた男性として認められています。
 1897年といえば、日本は日露戦争開戦の前で、中国は清朝が治め、イギリスではビクトリア女王が君臨していました。その時代から、世界的な大きな戦争を2つも経て、現代まで悠々と生きてこられたという事実に圧倒されます。
 食べ物や生活習慣はもちろんですが、木村さんが長生きをした秘訣は、その心持ちに大きくあったような気がします。
 木村さんは110歳を超えてからも、毎日時間をかけて、天眼鏡を使いながら、新聞にじっくり目を通していました。「時代についていけないようではいけない」と言い、テレビで国会中継を欠かさず見ていたことで知られます。
 「時代についていく」というのは簡単なようで大変難しいことです。世の中に対して常にアンテナをはり、今何が起こっているのか、そして自分はどう行動すべきかを考えていかなければならないからです。
 そんな木村さんは訪れた人々に「サンキュー」と言っては、周りの人を笑顔にしていました。年上の人に「ありがとう」とお礼を言われるのは、くすぐったいような誇らしい気持ちになりませんか。ましてや、100歳をはるかに超える人から言われたら…こちらの方がありがたく、恐縮してしまいます。
 でも、「サンキュー」なんて茶目っ気たっぷりに言われたら、思わず笑顔になってしまいますよね。
 お礼の言葉とは、相手のことを自分が受け入れて初めて出ます。自分よりもずっとずっと年下の人達や、その時代を受け入れきた木村さんの生き様が、「サンキュー」に凝縮されているように思えるのです。

鬼手仏心

注ぐ水

 誰しも、山登りをした時に、湧き水や清流の水を手ですくって飲み「ああ、おいしい」と思った経験があると思います。
 自然の水は「ああ、おいしい」と思って飲むと、ますますおいしくなるような気がします。
 水は生きていて「こころ」があるからだと教えられたことがあります。そのことが正しいかどうかわかりませんが、「水にもこころがある」と信ずる方が楽しい気がします。
 雨は山に降り、やがてそれは川となって流れ、海に注ぎます。海水は、また水蒸気となって雲となり、山に雨を降らします。その水で山の木や草が育ちます。
 水に心があるならば、その水で育った山の木や草にも心があるはずです。
 天台宗ではそのことを「山川草木(さんせんそうもく)悉有仏性(しつうぶっしょう)」と教えています。
水と植物の話というなら、法華経には「三草二木(さんそうにもく)( 上、中、小の三草と大、小の二木のこと)の喩(たと)え」があります。
 この世の山や谷、また野原などに生い茂る植物の種類は数えきれません。そこへ雨雲が広がり、草木の上には雨が降り注ぎます。これらの草木は大小ありますが、そんな区別はなく、小さい植物も、中程のものも、巨大な木もそれぞれに潤いを受け、根も茎も枝葉も成長し、花咲き実を結ぶのです。
 大地は、私のない天雨を私なしに受け取り、私なしに薬草も毒草も三草二木を発芽させます。
 それと同じように、お釈迦様の教えは誰にも平等に説かれるのですが、受け取る衆生の機根(きこん)(仏の教えによって動きだす力)によって、それぞれに大きな花をつけたり、実を結ぶのに時間がかかったりします。つまり、同じ水を吸収しても育ちかたが違うということですね。しかし、その大小や結果は違っても、どれも尊く、等しく悟りの世界に至るのです。

仏教の散歩道

科学の発達の危険性

 〝科学〟という言葉は、英語では〝サイエンス(science)〟です。そしてこの語は、ラテン語の〝スキエンツィア(scientia)〟に由来し、「知識」といった意味です。したがって、〝サイエンス〟は〝知識学〟と訳したほうが、その性格がはっきりします。
 だから科学は発達するのです。バラバラな知識だから、いくらでも積み上げることができます。そして、積み上げられた知識が、科学の発達になります。
 けれども、知識はいくら積み上げることができても、そこには智恵がないのだから、科学の発達は時に不幸をもたらします。その例はいろいろありますが、いちばん典型的なのは原子力(正確にいえば原子エネルギー)でしょう。人類はウランやプルトニウムから大量の核エネルギーを取り出すことに成功しましたが、同時にそれによって原子爆弾や水素爆弾を作り出し、広島・長崎の悲劇を招きました。わたしたちは、科学の発達を手放しで喜ぶことができません。知識を積み上げる前に、わたしたちは智恵を持たねばなりません。その智恵を欠いた知識の積み上げ−すなわち科学の発達−はとても危険です。わたしはそう思います。

 ところが、そこで必要とされる智恵にも、二種類があります。
 一つは人間の欲望にもとづく智恵で、たとえば安価な電力を得たいということで、原子力発電に頼ろうとするものです。なぜ安価でなければならないかといえば、大企業の利益を増大させたいからです。そういう欲望にもとづく智恵で、こちらのほうは〝智恵〟と表記します。
 もう一つは仏教が教える智慧です。仏教が何を教えているかといえば、それは「少欲知足」です。わたしたちの欲望を少なくし、足を知る心を持ちなさいというものです。こちらのほうは〝智慧〟と表記します。
 わたしたちは経済的利益ばかりを追求して、その結果、大きな危険を見落としてしまいます。とくに大企業に密着した現在の政権は、その傾向が強いと思います。
 あるいは、わたしたちはどこまでもどこまでも長生きしたいと考え、そのために医学的・薬学的知識ばかりを蓄積する傾向があります。その結果、認知症という障害が出てきても、それはそれで別問題として、また別な知識を求めます。それがいわゆる科学的な態度とされています。おかしいと思いませんか。
 仏教は、それに対して、もういい加減にしようではないか、と提案しています。どこまでも経済的利益を求めるのではなしに、いい加減なところで満足する智慧。少欲知足の智慧。それこそが仏教の教える智慧です。
 そして、その智慧でもって科学の発達をコントロールすることが、現代日本人の急務ではないでしょうか。

カット・酒谷 加奈

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