天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第150号

比叡山宗教サミット28周年「世界平和祈りの集い」
紛争やテロの終熄を祈念する

28周年を迎えた「比叡山宗教サミット『世界平和祈りの集い』」は、8月4日に総本山延暦寺で開催された。今年は、戦後70年という節目の年を迎えることから、同日午前10時より延暦寺阿弥陀堂において、叡南覺範毘沙門堂門跡門主を導師に、各教区代表者らが出仕して、すべての戦没者、戦争犠牲者に対する慰霊法要が行われた。また午後1時からは、木ノ下寂俊天台宗宗務総長が導師となって根本中堂で世界平和祈願法要が厳修された。同日午後3時からは例年通り、各教宗派代表らが参加して、祈りの式典が行われた。

 半田孝淳天台座主猊下は「本年は終戦から70年という節目の年に当たる。戦争で亡くなられたすべての御霊の安らかならんことを。そして、平和の尊さを世界に訴えるサミットでありますように。また紛争やテロが一日も早く終熄(しゅうそく)することを念願する」との平和祈願文を神仏に捧げた。 

 戦後70年。
 「比叡山宗教サミット28周年『世界平和祈りの集い』」開催にあわせて、戦争で犠牲となった人々の御霊を敵味方を問わず慰霊する法要が行われた。初めての試みである。
 小川晃豊天台宗宗議会議長は法要の中で「今日の平和は戦没者の犠牲の上にある。大陸や、太平洋の島々に散って行かれた数限りない戦没者のことを思う時、溢れる涙を禁じ得ない」と追悼文を奉上した。
 また昨年に引き続いて行われた天台宗平和祈願法要は、大改修のため、すでに足場が組まれた根本中堂内陣において執り行われた。
 午後3時からの祈りの式典開会にあたり、木ノ下宗務総長は「戦後、一度も他国を武力で侵略することのなかった日本の姿勢を、宗教者として、またひとりの日本人としてこれからも堅持すべきである」と述べた。
 このあと半田天台座主猊下を中心にして、各教宗派の代表および今回のサミットに世界各国から参加した海外招待者5名が特設壇上に集い、それぞれの宗教礼拝にしたがって平和を祈願した。特に、今回はアブドッラー国王宗教・文化間対話のための国際センター(KAICIID)事務総長ファイサル・ビン・アブドルラハマーン・ビン・ムアンマル閣下の参加が注目を集めた。(4・5面に関連記事)

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

朝露の一滴にも天と地が映っている

 朝露の一滴にも天と地が映っている  開高 健

朝露は、日が昇る頃には消えてしまいますから、はかないものの例えに上げられます。そんな露にも一瞬であれ、この世界は投影されて存在しているわけです。
 この世界の極小の部分やごく短い時間と、大きな事物や悠久の時の流れは、同時に密接に存在しているわけで、部分は全体であり、全体は部分であるのです。「神は細部に宿る」という言葉にも照応しているようにも思えます。 
 しかし、そんな地球の上で、万物の霊長である人間こそが中心存在であると、人間自身は思っているようです。宇宙にある全てのものの最も優れた存在という人間。その人間が織りなす事だけが、この世の出来事の全てであるかの如くです。
 作家の開高健さんは、ベトナム戦争のさ中に、新聞の特派員として南ベトナムに派遣されます。政府軍200名と共に前線に赴きますが、解放戦線との戦闘に巻き込まれ、わずかに生き残った17名の一人となります。まさに露の命を目の当たりにしたのです。
 生き残って放心した姿の開高さんの写真が残っています。ジャングルの草むらの露も、そんな光景を映し出したかも知れません。もちろん、自然はそんな人間の状況には無関心です。人間の生き死にや、喜怒哀楽が交錯する人間世界の出来事などと関係なく、この世界はあり続けるのです。
 その後、開高さんは、釣りに熱中します。北の大地から熱帯のアマゾンなど、世界各地の河川を訪れ、その釣りの様子は著書の『オーパ!』などで、含蓄深い言葉とともに残しています。人間世界の争い事に巻き込まれた末に、とりとめた一命を、悠久なる時が育んだ大小の河川で遊ばせます。大自然の中で、自らの生命をその一部とする時を過ごします。露に映る天と大地も、己の眼に映る天と大地も同じ世界で。

鬼手仏心

蘇る大仏  てんだいしゅうさん

 今年の6月6日と7日に、巨大なプロジェクターにより、およそ8時間にわたって、暗闇のバーミヤン渓谷に大仏の姿が再現されたというニュースが流れました。
 今から14年前にイスラム原理主義者タリバンが「偶像崇拝禁止のイスラム法に反する」などとしてアフガニスタンのバーミヤン渓谷で6世紀に造られた石仏を爆破しました。
 その映像は、繰り返して報道されました。我々仏教徒にとって大変ショッキングな事実でしたから、覚えておられる方々も多いと思います。
 その時に美智子皇后陛下は「知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くるバーミヤンの野にみ仏在(ま)さず」との御歌を詠まれました。
 「人間の心に宿る憎しみや不寛容の表れとして仏像が破壊されたのだとすれば、知らず知らずに自分もまた一つの弾を撃っていたのではないだろうか」という意味です。気高い精神性を示された素晴らしい御歌です。
 さて、破壊された大仏は、もはや修復は不可能とされ、それから10年以上放置されてきました。それがプロジェクションマッピングという技術で再現されたというのです。
 プロジェクションマッピングとは パソコンで作成したCG(コンピューターグラフィック) と特殊な映写機器を用い、建物や物体、あるいは空間などに映像を映し出すことのできる技術のことです。
 地元の人々は、大仏が映し出されると、歌い踊って全身で喜びを表現したといいます。バーミヤンのある男性は「タリバン政権下に破壊された我々の歴史そのものが甦った。無くなったものが戻ってくる訳ではないけれど、我々の精神が失われた訳じゃない」と語ったといいます。胸が熱くなりました。

仏教の散歩道

謝罪の必要性 ひろ さちや

 監督から盗塁のサインが出ていなかったにもかかわらず、相手投手のモーションが大きかったので、自分の判断で盗塁を敢行しました。だが、結果は失敗に終わった。それで彼は、監督に謝りました。
 すると監督は選手に言います。
 「おまえは成功を確信してスチール(盗塁)を試みたのであろう。だが、結果は失敗だ。しかし、おまえは、結果に対して謝罪する必要はない。おまえが中途半端なプレーをやったのであれば、おまえは謝る必要がある。いま、ここでおまえが謝るということは、おまえは中途半端な気持ちでプレーしたと告白していることになる。それでいいのか!?」
 じつは、この監督はアメリカ人で、選手は日本人です。日本人は、失敗したりエラーをしたとき、すぐに、
 「すみませんでした」
 と謝りますが、アメリカ人は結果に対しては謝罪しないそうです。そういう話を教わったことがあります。
 考えてみれば分かりますが、わたしたちは結果に対して責任をとれません。こちらは盗塁を成功させようと必死の努力をしますが、相手のほうは成功させまいと必死の努力をするのです。結果は偶然です。その偶然に対して、わたしたちは責任をとれないのです。
 そして、人生におけるあらゆる出来事が、いわば偶然に左右されています。一流大学合格まちがいなしと折紙付(おりがみつき)の受験生が、試験の当日、電車の遅延によって一科目の試験を受けられず、不合格になることもあります。金婚式を迎えた両親に、子どもたちがお金を出して海外旅行をさせた。ところが旅行中、ホテルの火事で両親が死んでしまうことだってあります。子どもたちは、
 〈あんなこと、しなければよかった〉
 と思うでしょうが、われわれはそこまで責任をとれませんよね。
 では、どうすればよいのでしょうか…?
 わたしたちは結果に対して責任をとらなくていいのです。いや、とろうとしてもとれない。それが人間です。
 それ故、わたしたちは失敗に対して謝罪する必要はありません。失敗に対して謝罪することは、どこまでも自分が責任をとろうとすることで、ある意味でそれは不遜な態度です。と同時に、失敗をした他人に謝罪を求めることは、相手に人間以上の超能力を求めていることになります。自分自身がそんな超能力を持っていないのに、それを棚上げにして相手に超能力・完璧性を求めることは、公平な態度とはいえません。大事なことは、他人の失敗を赦すことです。
 では、まったく謝罪が不要かといえば、そうではありません。謝ることは必要ですが、そのときは人に対して謝るのではなしに、仏に対して懺悔(さんげ)をするのです。仏は必ずわたしたちを赦してくださいます。だからこそ懺悔ができるわけです。

カット・酒谷 加奈

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