天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第147号

七年に一度の「御開帳」

4/25に中日庭儀大法要を厳修
参拝者で大いに賑わう
4/5~5/31信州善光寺

善光寺(小松玄澄大勧進貫主)では、七年に一度、秘仏である「前立(まえだち)本尊」を本堂に迎えて行う「善光寺御開帳」が4月5日から5月31日まで、約2カ月にわたり執り行われ、連日、全国から多くの参拝者が訪れ賑わっていた。善光寺は単立寺院で、護持運営は天台宗の善光寺大勧進と浄土宗の善光寺大本願が行っている。

 善光寺の御本尊「一光三尊阿弥陀如来」は白雉5年(654)以来の秘仏で、鎌倉時代に御本尊の身代わりとして「前立本尊」が造られ、普段は宝庫に安置されている。この「前立本尊」は、七年に一度御開帳され、御本尊の右手と善の綱で結ばれた回向柱も造られる。この回向柱に触れると、「前立本尊」に触れるのと同じことで、その功徳は計り知れないと言われている。期間中、数多くの参拝者が訪れて回向柱に触れ、それぞれに祈りを捧げていた。(写真上)
 期間中の4月25日には、御開帳最大の行事である「中日庭儀大法要」(天台宗)が厳修された。(写真下)同法要は、大勧進貫主と天台宗一山二十五院の住職が、回向柱の前で前立本尊を華やかに讃える古式ゆかしい儀式である。
 同日午前10時、雅楽の調べが響く中、小松貫主や一山住職、信徒ら800名が大勧進を出発、大勢の参拝者が見守る中、本堂前の回向柱において庭儀式を厳かに修した。
 続いて、本堂において中日庭儀大法要が執り行われた。本堂回廊から色鮮やかな五色の散華が撒かれると、つめかけた参拝者は、邪気を払うとされる蓮をかたどった色紙を得ようと歓声を上げていた。
 その後、山門の南にある釈迦堂でも法要が営まれ、善光寺は終日、参拝者で賑わっていた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

経済行為とはカネをもうけることであり、
政治的行為とはもうけたカネをうまく使うことであり、
文化的行為とは、うまくであろうが何であろうが、ただひたすらカネを使うことである

『再び男たちへ』     塩野七生

 人間、暮らしを成り立たせるためには、なにがしかのお金を稼がないといけませんが、それ以上のお金を儲けたいという本能もあります。というか、商行為をする本能を持つのが、食い物さえあればいいという他の動物との決定的な違いともいえます。で、この人間社会をうまく回していくには、お金をいかに使うかと言うことでもあります。それが政治の一面ですね。そうなると、この社会は「お金」が最も重要なものの一つだということになります。
 でも、お金というものは、決して平等に行き渡るものではなく、必ず偏在するものです。有り余ったお金、使い切れないお金は、貯めておくだけでは死んだお金になってしまいます。ところが、ちゃんとそのお金を活用する方法があります。文化の分野です。
 人間世界には、文化とか芸術という、それ自体、物質的価値や、お金は生み出さない、精神的価値を本質とする分野があります。
 しかし現代に受け継がれている数々の芸術作品は、その裏に、実業家など富豪による金銭的バックアップがあって初めて生まれたということが多くあります。例えば、ルネッサンス期のイタリアで、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロらによる数々の至宝の作品が生み出された背景には、メジチ家がパトロンとして多大な経済的支援をしたことによる歴史的事実があります。
 また、日本人でも、大正から昭和にかけて、パリにおいて藤田嗣治など日本人芸術家のパトロンとして、美術や音楽、演劇などの文化に惜しみなく私財を投じた大富豪、薩摩治郎八の例もあります。
 お金をさらに増やすという実利のためではなく、文化・芸術に使うという行為は、我々持たざる者にとっても、一種、爽やかな気分にしてくれるものですね、お金儲けが目的でないという点で。

鬼手仏心

オジサンの夢  天台宗出版室長 阿部 昌宏

 野球評論家の張本勲氏の「問題発言」に話題沸騰である。
 レギュラー生出演中のTV番組で「カズ」の愛称で知られる、サッカーJ2横浜FCの元日本代表FW・三浦知良(かずよし)選手に対して「カズファンには悪いけど、もうお辞めなさい」とコメントしたのだ。それもゴールできなかったからではない。48歳1カ月でJリーグ最年長ゴールをマークしたにもかかわらず、である。
「若い選手に席を譲らないと。団体競技だから伸び盛りの若い選手が出られない。だから、もうお辞めなさい」というのである。
「(J2は)野球で言えば二軍だから、二軍でがんばってもそんなに話題性もない」とのことだが、J2から日本代表も選ばれるし、J1への昇格はチームごとだ。J2は二軍ではない。
 それはともかく、張本発言に対するカズのコメントがすごい。
 「もっと活躍しろと言われてるんだなと思いました。『これなら引退しなくていいよと言わせてみろ』と(張本氏に)言われてるんだな」。
「さすがにキングカズだ。大人の対応。カッコイイな」という賞賛の嵐である。
 「批判は貴重なアドバイス」といわれるが、そのまま受け入れる人はまれだ。
 「偉そうなこと言うな。お前だって」と逆ギレするのが大方ではあろう。それを、「張本さんのようなスターが話題にしてくれるだけでありがたい」というのだから「アッパレ」である。
 プロスポーツは、チームが単に勝てばいいというものではない。ファンは特定の選手に自分を託し、夢を見る。それが醍醐味でもある。
 48歳1カ月でJリーグ最年長ゴールは、中高年にとって「俺だってまだまだ」と思わせてくれる夢なのだ。
 辞めるな。

仏教の散歩道

「苦」はなくならない  ひろ さちや

 人生は苦である。すべては苦だ。一切皆苦。仏教はそう教えています。
 昔、大学生のとき、授業でそう教わったとき、人生にはいろんな楽しみがあるのに、すべては苦だなんて、仏教はなんと厭世的な教えなんだろうと、いささか不満に思ったことがあります。でも、考えてみたら、わたしたちが楽しいと思うことも、それは長続きしません。甘い恋もやがては破局を迎えます。恋心が冷(さ)めなくても、恋人の死による終わりもあります。そのとき、恋が甘かったほど、恋人は苦しまねばならないのです。競争の勝者は、かならずいつかは敗者に転じます。だから、人生は苦なんです。
 それともう一つ、漢訳仏典で〝苦〟と訳されている言葉のサンスクリット語の〝ドゥフカ〟は、「思うがままにならない」といった意味です。この世の一切のことは、わたしたちの思うがままになりません。その思うがままにならないことを、わたしたちは思うがままにしようとします。金持ちになりたい、勝者になりたい、幸福になりたいと思う。そう思うと、わたしたちは苦しまねばならなくなります。だから一切皆苦なんです。
 では、どうすればよいでしょうか?
 この、どうすればよいかということで、なんとかして「苦」を克服しようと考えたのが小乗仏教です。小乗仏教は、人生が苦であるのは、何かそこに原因があるに違いない。その原因さえなくせば、苦を克服できるはずだ、と考えました。そして、苦を克服するための修行をしたのです。
 おかしいと思いませんか。もしも苦が克服できるものであれば、釈迦が教えた「一切皆苦」の教理が成り立たなくなります。苦を克服した人にとっては一切は苦でないのであり、苦を克服していない人にとってだけ一切皆苦になります。ということは、小乗仏教は、釈迦の教えを否定しようとした、まちがった教えだということになります。
 そこで大乗仏教は、釈迦の教えの原点に戻って、一切皆苦を否定しようもない事実として認めることにしました。つまり、人生のすべては苦であって、思うがままになりません。だからわれわれはそれを思うがままにしようとしてはいけないのです。
 わたしたちは人生においてさまざまに苦労せねばならないのです。それを、〈こんな苦労はしたくない〉と思えば、苦を克服しようとしているのです。しかし、苦は克服できない。ならば、わたしたちは苦労をすればいいのです。できれば楽しく苦労をすればいい。それが大乗仏教の考え方です。
 いいですか、苦はなくなりませんよ。でも、家族が舌鼓を打ってくれるだろうと期待して楽しく料理を作る主婦は、それをちっとも苦にしていません。そのとき、苦労は苦でなくなっているのです。苦をなくすことはできないが、苦でなくなることはできます。それが大乗仏教の考え方です。

カット・酒谷 加奈

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