天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第145号

慰霊と復興
 悲しみを越えて祈る―

 東日本大震災から4年目となる3月11日、天台宗では福島県や宮城県石巻市などの被災地、また総本山延暦寺において追悼法要が執り行われ、ボランティアバスによる復興支援活動などを女川町・出島で行った。震災による犠牲者は1万5891人。行方不明者は2584人に及び、原発事故などで郷土を離れた人々は約23万人に上る。当日、現地は激しい強風が吹き荒れ、また時折、吹雪で視界が遮られるような厳しい状況となった。天台宗僧侶らは、犠牲者への鎮魂の祈りを捧げ、一日も早い原発被害の収束と被災地域復興に協力を誓った。

 福島教区・観音寺(矢島義謙住職)では「東日本大震災物故者慰霊並復興祈願法要」が、教区宗務所長である矢島住職を導師として厳かに執り行われた。
 出仕は同教区寺院住職がつとめ、天台宗より、阿部昌宏総務部長、中島有淳教学部長、角本尚雄社会部長、 横山照泰一隅を照らす運動総本部長が参列。また、比叡山延暦寺から中山玄童参拝部長が参列した。さらに、天台宗檀信徒会会長研修会の一環として各教区の檀信徒会会長が参列しており、福島教区各寺檀信徒とともに、震災犠牲者を慰霊し、被災地の早期復興を祈願した。
 矢島所長は「震災被害を風化させてはならない。犠牲となった方々の為にも、悲惨さを後世に伝え、一刻も早く復興を果たすことが私たちの務めである」と決意を語った。(3、4、5、7面に関連記事を掲載)

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

そもそも手が機械と異なる点は、それがいつも直接に心とつながれていることであります。
機械には心がありません。
これが手仕事に不思議な働きを起こさせるゆえんだと思います。

「手仕事の日本」 柳宗悦(やなぎむねよし)

 美学者であり、思想家、宗教哲学者でもあった柳宗悦は、暮らしの中に使われてきた品に美を見いだしました。彼は、その「用の美」を唱えた「民芸運動」の中心人物でした。日本各地の焼き物、染織、漆器など、無名の職人による日用雑器を訪ね、その美しさを発掘しました。
 いわゆる美術品ではなく、民衆による日用工芸品に光を当てたのです。
 いずれも手仕事によるものです。手はただ動くのではなく、いつも奧に心が控えていて、これが品物に美しい性質を与えるともいいます。だから、手仕事は心の仕事だというのです。その手仕事の担い手は、ほとんどが名もない職人さんです。作った品物だけが評価の対象ですから、技術だけが命なのです。
 明治以降、日本の殖産興業は、西洋の技術の下に、機械による大量生産が主流となりました。生活用品も同じく機械作りの無個性の品が幅をきかせます。
 しかし柳は、その風潮に抗し、連綿と伝えられてきた手仕事による日用の品々の復権を図ったのです。
 「名もなき職人が実用のためにつくり、庶民の日常生活の中で使われたものこそが美しい」と柳は言い、また、「実に多くの職人たちは、その名をとどめずこの世を去っていきます。しかし彼らが親切にこしらえた品物の中に、彼らが生きていた意味が宿ります」と言っています。
 手仕事の品の持つ美への愛着と、それを創り出した職人への愛情が溢れた言葉です。
 美術史の流れの中で埋もれていた朝鮮王朝時代の工芸品や、江戸時代の遊行僧(ゆぎょうそう)、木喰上人(もくじきしょうにん)が各地に残した「木喰仏」と呼ばれる仏像を評価し、この世に出したことも、民衆の中にある「美」への思いに繋がっています。 

鬼手仏心

ナイフと宗教教育 天台宗財務部長 田中祥順

 川崎市の中学1年生の男子生徒が、仲間だった18歳の男たちに多摩川河川敷で刺殺された事件は、社会に大きな衝撃を与えた。
 カッターナイフで首を切るという猟奇的で残虐な手法は、イスラム過激派を真似た〈模倣犯〉であるとも指摘されている。
 何より、中学1年生の男子が、それまで属していたグループに刺殺されたということに、いい知れない恐怖を覚える。
 原始時代には武器がなく、肉体同士で戦っていた。これは、かなりのストレスである。
 そのために人間は武器を発明し、改良してきた。最初は槍や銛(もり)、その次に刀剣、さらに銃が発明されるにいたり、相手に触れることなく殺戮(さつりく)することが可能になった。精神的負担は大幅に軽減されたのである。現在は、無線による無人飛行機が爆弾を積んで飛ぶ。攻撃側はモニターで操作するだけらしい。
 川崎市の事件やイスラム過激派が、私たちに恐怖を与えるのは、その殺戮方法が、あえて「ナイフで切る」という原始的な手法を選んでいることである。そこには激しい憎悪が感じられる。
 彼らは、それまで仲良くしていたと報じられている。その関係が、ほんの少し歯車が狂っただけで激しい憎悪、それも殺害を決意するほどのものに変わってしまう。
 戦後70年という年月が過ぎて、日本社会はじわじわと人々の意識が変わってきたように思う。
 平成10年1月に、栃木県で、中学生生徒による女性教師刺殺事件があった時には、天台宗は「宗教教育が急務ではないか」との主張を行った。
 そのことは今回も変わらない。
 いや、ますます重要な問題となってきているように思われる。

仏教の散歩道

金に頭を下げる

 昔、ある高僧が、京都の老舗(しにせ)の商人が、顧客に深々と敬礼する姿を見て、それを「美しい」と評し、その姿のうちに仏教精神があると言っておられるのを読んで、わたしは、
 〈ちょっと違うよな〉
 と感じました。かの高僧は、商人の顧客に対するお辞儀を、『法華経』が言う「礼拝行」と見たようです。礼拝行というのは、釈迦世尊が過去世において、あらゆる人がやがて仏になられる人だとして、道で出会うすべての人に礼拝したことを言います。
 わたしは大阪商人の子です。現在の大阪商人がどんな考えでいるかは知りませんが、わたしの子どものころ(六十年以上も昔です)の大阪商人は、
 「わしらは金持ちに頭を下げているんやないで…。その人が持っている金に頭を下げているんや」
 と言っていました。だから、たとえ十円の品物でも買ってくれた人は客ですから、大阪の商人は「おおきに」と言って頭を下げるのです。
 それを知っていますから、京都の老舗の商店主が顧客に深々と敬礼したところで、ちっとも美しいとは思いません。「あたりまえ」とわたしは思います。ましてそれが、仏教の礼拝行だとは思えない。そんなことを言うことが、わたしからすれば笑止千万です。
 では『法華経』が教える礼拝行とは何でしょうか?
 簡単にいえば、金を持っていない貧しい人を拝むのです。
 劣等生を拝む。何の権力も持たない、ただの人を拝む。それが礼拝行だと思います。
 そうすると、「おまえは、権力者、金持ち、優等生を拝んではいけないと言うのか⁉」と詰め寄られそうですが、拝んでいけないと言うのではありません。でも、金持ちや権力者を拝むと、どうしてもこちらが卑屈になります。ぺこぺこすることになる。見苦しい態度になってしまいます。だから、やはり、拝まないほうがよいと思います。
 けれども、それだからといって、喧嘩をせよと言うのではありません。金持ちや権力者に対して喧嘩腰になり、それを反骨精神と称して自慢する人を見かけますが、それもおとなげない態度です。もっと自然に振舞えばよいでしょう。
 それには、わたしはあんがい大阪商人のやり方がよいと思います。すなわち、わたしたちは金持ちが持っている金に頭を下げ、権力者が持っている権力に頭を下げます。そして、権力を持たぬ庶民、金を持たない貧乏人を拝むのです。わたしは、それこそが『法華経』の言う「礼拝行」だと思います。
 ともかく、礼拝行は「人間」を拝むのであって、金や権力を拝むのではありません。そこのところをまちがってもらっては困ります。

カット・酒谷 加奈

ページの先頭へ戻る