天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第143号

叡山学院、種智院大学
「学術交流及び協力に関する協定」を締結

 天台宗立で天台宗法嗣養成の最高学府である叡山学院(清原惠光院長)と真言宗系の種智院大学(村主康瑞(すぐりこうずい)学長)が、この程、「学術交流及び協力に関する協定」を結ぶこととなり、その調印式が昨年12月9日、清原院長、村主学長の出席の下、京都市内で行われた。正式に協定を結んで、学術交流などを行うのは初めてのことであり、共同研究などで、今後の成果が期待される。

 叡山学院は、宗祖伝教大師の遺された精神を基盤とし、立教開宗の本旨に則った学問と修行を共に学び行う「解行双修(げぎょうそうしゅう)」を教育理念としており、天台教学の教育と研究の学府として知られている。また種智院大学は、真言宗の宗祖、弘法大師が開創した綜藝(しゅげい)種智院が源であり、大師の真言密教の智慧(ちえ)を元にした建学精神を受け継いだ人材育成を目指す大学。
 この協定は、天台密教と真言密教など教学分野、法要、声明などの実践分野で共通するものがあり、交流を深めることが互いにとって有益との判断からで、今後は、教員の交流、学生の交流、共同研究、学術資料の交換などが考えられている。協定締結当初は、教員の交流から実施することとしており、今年は、それぞれ相手方で講座を開講する予定となっている。
 調印を終えた清原院長は「今回の協定は誠に意義深く、互いに切磋琢磨し、伝教大師、弘法大師の伝灯を受け継ぎ、密教教学研究をはじめ、両学府が益々発展していくことを願うところです」と話した。また村主学長も「過去には交流もあったが、今回、正式に協定を持ち、交流することになりました。誠に、歴史的に意義深いことです。現代仏教を担う若い世代が互いに刺激をうけ、大きな成果を上げることになれば、嬉しい限りです」と期待を語った。
 両宗の交流については、平成21年6月に、半田孝淳天台座主猊下が弘法大師祖廟のある高野山を参拝。これが開宗以来初めての公式参拝となった。その後も真言宗主催シンポジウムへの天台宗の参加、比叡山宗教サミットへの真言宗の参加協力などがあった。
 こうした諸々の交流の上に、今回の両学府の正式な協定が結ばれたのである。教学分野をはじめ、今後の仏教界の発展にも寄与することが期待されよう。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 ジェノサイドの恐ろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。その中にひとりひとりの死がないということが、私には恐ろしいのだ。

『望郷と海』 石原吉郎

 ナチスドイツ親衛隊のアイヒマンは、数百万人のユダヤ人を強制収容所に送った指揮者ですが、自らが裁かれた裁判で「百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ」と述べ、「私は命令に従っただけだ」と弁明しました。
 この裁判を傍聴したユダヤ人女性の哲学者、ハンナ・アーレントは、そんな彼を、「悪の凡庸さ」「悪の陳腐さ」と指摘し、単なる思考の欠如した官僚だと評しました。また、紋切り型の官僚言語を使って弁明するアイヒマンには「他の人の立場に立って考える能力」が不足しているとし、無思考によって、悪を行っているという現実から逃避しているともいいます。
 一方、敗戦後、シベリアに抑留され、身近で死を体験した詩人、石原は「死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ」という立場に立ちます。
 イスラム過激派が樹立を宣言した「イスラム国」に加わろうとした日本人大学生が、渡航を事前に阻止された事件がありました。その大学生は就職活動に失敗し、違った世界に行けば、何か見つけられるかも知れないと、戦闘の場に行こうとしたようです。政治的動機など全くなかったようです。いわゆる「自分探し」的な思考です。そこには、「命」への想像力がありません。唯一かけがえのない人生を奪い、失う、という事への深い思いがありません。
 私たちも「自殺者3万人」、「災害犠牲者6千人」といった数字に接する時、ややもすると無機質な統計上の数字として捉えがちですが、そのひとりひとりの命は、この世界でたった一つの人生を生きてきた命であることを忘れてはならないと思います。 

鬼手仏心

干支に学ぶ未来 天台宗一隅を照らす運動総本部長 横山 照泰

   
 今年も年が明けてはや、ひと月が過ぎました。今年は干支(えと)でいえば乙未(きのとひつじ)年です。日本でも古来より十干(じっかん)十二支といって、今日においてもその年の運勢を干支に頼るところがあります。
 干支とはそもそも古代の中国の人たちが天地自然をじっくり観察し、悠久の時間をかけて集積したデータを統計学的に分析し、体系づけたものです。つまり、天体の運行を観察することで、ある法則を掴み、それを基軸に生活の指針にしてきたのです。
 干支の「干」とは木の幹や根を指し、「支」は枝や花を表象するという説もあります。植物の発生から生長、収縮に至るまでの過程を「干」は十段階、「支」は十二段階とし、これを組み合わせて六十のパターンに分類したのです。
 それが、人間世界の様々な出来事や時世の変化についての判断にも適用されているのです。たとえば「一年の計は元旦にあり…」という故事は、「殻(種)を植ゆるにあり…」からきていると言われます。
 ところで近代科学の発展の中で、データは結果を生み出す大事な要素ですが、そのデータを人がどう捉えどう扱うかで、結果が変わります。そして大きな差異を招くのです。
 古代中国の考え方は、「干」と「支」を分けても、その要素を対立させるのではなく、実にバランスよく一つのものとして捉えてきたのです。
 今日、行き詰まった人類の未来を打破するヒントがここにあるのではないでしょうか。対立の状態でも、巧みにバランスをとって、共鳴・共感していく関係を築くことが必要です。

仏教の散歩道

仏の教えは動詞形

 仏教の教えというものは、本来は動詞形で考えるべきものなんです。たとえば、
 ―少欲知足―
 といった言葉があります。これは、「欲を少なくし、足(た)るを知る心を持ちなさい」という意味なんです。
 だが、そのように教わると、わたしたちはすぐさま、
 「そんなこと、できっこない。人間に欲があるのはあたりまえなんだから、欲をなくせといった仏教の教えはおかしい」
 と反論したくなります。これは、問題を、「静止した状態」で考えているからです。欲望を少なくして、できるだけ欲望のない状態に達することが望ましい。わたしたちはそのような状態に到達するよう努力せねばならない。そう考えるから、「それはむずかしい」となってしまうのです。
 「少欲」というのは、欲望が少なくなった状態ではなしに、欲望を少なくするといった動詞形なのです。
 たしかに、人間に欲望があるのはあたりまえです。もっとも、本当に欲深い人もいますが、あまり欲のない人もいます。それは性格です。で、仏教は、欲深い性格の人はだめで、あまり欲のない人のほうがいい人間だ、と言っているのではありません。性格というのは生まれつきなのですから、性格を問題にされたら困る人もいるわけです。
 仏教が教えているのは、あなたがいま持っている欲望をちょっと少なくしてごらん。そして、足るを知る心を持つようにしてごらん。そうすると幸せになれるよ。そういうアドバイスなんです。
 では、欲望を少なくするには、具体的にはどうすればよいのでしょうか?
 それは、われわれが、
 ―損をする勇気―
 を持つことです。なぜなら、わたしたちはみんな、「得をしたい」「損をするのはいやだ」と考えています。じつは、それが欲望なんですが、そんな欲望を燃やしていたのでは心の平安は得られません。そこでわれわれは、勇気を出してほんのちょっと損をするように行動します。もちろん、あなたにできる範囲での損ですよ。大損をして、あなたばかりかあなたの一家が生活に困るようではいけません。笑って損をできる、その程度の損をするのです。
 たとえば、満員のエレベーターで、あなたに時間の余裕があれば、自分が下りて誰か他人を先にしてあげるのです。満員電車で座席に座らずに立っている。それも損です。もっとも、体力に余裕があればの話です。もちろん、金銭的な損をすることも大事です。ただし、自分のできる範囲内での損です。
 ともかく仏教の教えは動詞形です。「少欲知足」は欲を少なくする、減らす、そのように行動することを教えているのです。まちがえないでください。

カット・酒谷 加奈

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