天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第139号

世界宗教者平和の祈りの集い
「平和が未来への道」諸宗教の指導者が集う

 カトリックの信徒団体である聖エジディオ共同体が主催する「世界宗教者平和の祈りの集い」の第28回大会が、9月7日から9日までベルギー・アントワープにおいて開催された。この集いは、1986年にローマ教皇ヨハネ・パウロ二世聖下の呼びかけでアッシジから始まり、今年で28回を数える。今回の集いのテーマには「平和が未来への道」が掲げられ、天台宗では、杉谷義純名誉団長(天台宗宗機顧問)、木ノ下寂俊団長(天台宗宗務総長)以下17名の使節団を派遣、世界各地から参加した諸宗教の指導者と共に、平和の祈りを捧げた。

9月7日は、アントワープ市立劇場において開会式が開催された。イラクの少数民俗宗教のヤズィーディー派の出身で、イラク国会議員であるヴィアン・ダケール女史はイスラム国などイスラム過激派から迫害を受けている実態について証言。無差別の虐殺や女性や子ども達への残虐な扱いについて生々しい表現で訴え、その上で早急な国際支援を求めた。
 このあと杉谷名誉団長がオープニングの提言を行った。杉谷師は、100年前に起きた第一次世界大戦から第二次世界大戦、さらに現代における諸紛争の原因と影響について言及した。その上で宗教間の対話を通じた相互理解とともに、異文化の尊重を基本とした子どもの平和教育が不可欠であることを指摘すると、会場から大きな賛同の拍手が起こった。(写真)
 8、9日は、諸宗教と暴力、移民問題、命の価値など、現代社会が直面する諸問題についてパネルディスカッションが開催された。木ノ下団長は「アジア:諸宗教と命の尊厳」と題してスピーチ。「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という天台思想を元に、価値観の多様性、他者を尊重する文化、自然と共生する日本の思想を紹介した。
 9日夕刻には、各宗教・宗派で平和の祈り法要が執り行われた後、アントワープ市役所前広場においてベルギーのマチルド王妃出席のもと閉会式が行われ、平和宣言が採択された。 

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、
育ちがよいか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草ぶきか、
そういうところをよく見よ。

宮本常一 民俗学の旅

 これは民俗学者の宮本常一さんが、故郷を出るとき、父の善十郎さんから贈られた言葉です。この言葉が、一生旅を続けたという宮本さんの民俗学の原点となったようです。
 この言葉に続けて「駅へ着いたら人の乗り降りに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置き場にどういう荷が置かれているのかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるのか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる」とあります。
 まるで、他国に忍び込んだスパイの心得みたいですが、その土地がいかなる所か、を知る必須のノウハウですね。意識的にそうせよというところに感心します。私達は、知らない土地を旅したとき、ここまでの意識を持って風物を見ることはまずありません。でも、改めてこの意識を持って旅をしてみたいものです。また違った印象を持てることでしょう。
 宮本さんが故郷を出たときは大正末期で、今のように情報網も発達していませんし、日本各地、まだまだ地域ごとの違いや特徴が残っていた時代です。ですから、この観察方法は民俗学的にも有効だったんですね。
 しかし今の日本では、通用しないかも知れません。地域の特色ある風景はなくなり、どこへ行っても、同じ駅前風景が並んでいます。郊外も車社会を反映した同じようなショッピングモールがあります。
 日本全国、情報は瞬時に共有され、人々の生活も画一化された結果なのでしょう。かつての、その地方独特の味わいなどというものは、段々なくなってきています。
 ちょっと寂しい気がしますね。

鬼手仏心

「何も考えるな」 天台宗出版室長 阿部 昌宏

 サッカーの監督は、PK戦が始まるときには守る側にいても、攻める側にいても、同じアドバイスを与える。
 「何も考えるな」である。
 本当は「無心になれ」といいたい。が、ガチガチになっている選手にそんなことを言っても通用しない。「何も考えるな」というのが一番わかり易い。
 要は「力を抜け」「不安になるな」ということである。
 「必ずゴールしてみせる」と力んだり、「絶対に阻止する」と意気込んだりすると、結果が良くないことが多い。
 最も悪いのは「失敗するのではないか」と不安にかられることである。こうなると体が金縛りにあったように不自然な動きをするようになり、失敗する確率が高くなる。
 野球でいうなら、ピッチャーは、ストレートを投げれば打たれると思っているとする。しかし投げてみれば、ど真ん中のストレート。考えすぎた結果、体が逆に反応して、恐れていた現実を引き寄せるのだ。
 心理学では「人は恐れるものを招き寄せる」と説明する。
 自分が恐れるものとはその人が「自分の価値がかかっている」と思っていることだ。「失敗するのは絶対にイヤだ」と思っていることである。その気持ちがプレッシャーになって、普段なら何ということなくできるプレーでポカミスをしたりする。
 「ギャンブルの神様」といわれた作家の阿佐田哲也氏は「ギャンブルに限らず、プロには、ここ一番というところでチャランポランになる能力が必要だ」と言っている。
 ここぞという時に60パーセントぐらいの力で運んでいける能力のことである。その能力を得るためには、毎日120パーセントの練習が必要なことはいうまでもない。

仏教の散歩道

仏教者らしい問い

 日本人がインドに行って買物をします。日本では商品に値段がつけられています。客が値切ることもあるでしょうが、だいたいにおいて客はつけられた値段でその商品を購入します。
 ところが、インドでは、商品に値段はついていません。客が「これ、いくらですか?」と尋ね、商店主が値段を言います。「それは高い!もっと負けろ」と客が交渉を始め、お互いに駆引きをやった末、最後に値段が決まります。それがインドではあたりまえなんです。
 そして、決まった値段は、客によってまちまちです。値切るのが下手な人は、上手な人の二倍ぐらいの値段で買わされることもあります。高い段階で買わされた人は、内心では不満ですが、それは駆引きの上手/下手ですから、あきらめるよりほかないですね。
 今回書きたいのは、その交渉の上手/下手ではなしに、買物に対するインド人と日本人の考え方の差なんです。
 じつは、日本人が勘違いをしているのは、インドの商店に行って、客が、
 「これは、いくらですか?」
 と尋ねることが何を意味するか、です。日本人の場合、買う気もないくせに、商品の値段を知りたいと思うことがあります。だが、インド人には、それが理解できないのです。インド人の場合は、「いくらですか?」と尋ねることは、
 「わたしはこれを購入したい。あなたは、いくらでこれを売るか?」
 とオファー(申し入れ)をしたことになります。するとインド人は希望販売価格を述べ、それに対して客は自分の希望購入価値を伝えます。そして、二人の駆引きが始まります。
 ところが、日本人は、最初から買う気がない場合があります。たんに参考までにその商品の値段を知りたいと思っているだけのことがある。それがインド人には不可解なんです。買う気があると思っているから、執拗(しつよう)につきまといます。日本人はそれを「うるさい」と感じるようです。
 まあ、これは風土の違いと言うよりほかありませんね。
 それはそうとして、わたしが思うのは、仏教を学ぶ場合に、たんに参考までに仏教の考え方を知っておこうといった態度はやめるべきです。
 たとえば、「殺人犯でも仏は赦(ゆる)されますか?」といった問いは、あなたが殺人犯であった場合だけに問うべき問いです。たとえその人が殺人犯であったとしても、あなたと無関係の人であれば、その問いはまったく意味がありません。ちょうど買う気もない商品の値段を訊くのと同じです。
 わたしたちは仏教を、自分の問題として学ぶべきです。自分は悪人だ!こんな悪人でも仏は赦してくださるだろうか?それが仏教者の問いだと思います。

カット・酒谷 加奈

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