天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第138号

初の天台宗平和祈願法要行う
比叡山宗教サミット27周年 世界平和祈りの集い

 比叡山宗教サミット27周年「世界平和祈りの集い」が、8月4日比叡山延暦寺の祈りの広場において行われた。今回27年の歴史の中で、初めて天台宗として独自の「世界平和祈願法要」が行われ、一隅を照らす運動総本部の地球救援募金から国連難民高等弁務官事務所へ「シリア難民への義援金」が寄託された。 

 毎年行われる「世界平和祈りの集い」であれ、あるいは5年、10年という節目毎に各宗教の代表的指導者を招いて開催される「世界宗教者平和祈りの集い」であれ、天台宗はその中心的役割を担ってきた。しかし、その存在をいたずらに誇示することなく「集い」をとりまとめる「世話役」に徹してきた。
 今回の「集い」において、初めて単独の宗派として比叡山で「世界平和祈願法要」を行うという形をとることになった。
 その転換を迎えることについて、阿部昌宏天台宗総務部長は、各教区に要請して選抜された50名を越える出仕僧に対して「他宗の方々と共に平和を祈り、語り合って27年が過ぎた。天台宗として、あるいは各寺院が、檀信徒と共にどう平和を祈願しているかを真剣に考えた。そしてサミット式典の前に教区にお願いし、共に比叡山根本中堂の内陣で祈るという企画を考えたところ、皆様に快く賛同して頂き、今回から平和祈願法要を厳修することになった。毎年続けていきたい」と説明した。
 今回の世界平和祈願法要は木ノ下内局による独自の企画。出仕僧たちは控え室となった延暦寺書院旭光の間で行われたシリア難民への義援金の寄託式を見守った後、書院から根本中堂まで行道した。法要の導師は木ノ下寂俊宗務総長がつとめた。
 木ノ下宗務総長は、今回の平和祈願法要を営んだ主旨について法則(ほっそく)で
「大地自然の災いは 全地球規模に容赦することなく頻発しては 尊き生命に突然として不安をもたらす 科学の繁栄は 最新鋭の武器や核兵器と顕れて人命を脅かし 多くの犠牲者を生み
 他文化思想への不理解は 民族間の紛争となって大地を蹂躙し 人民虐殺へと繋がる
愚かなるかな人災の極み 心痛のいたり 極まりなし 今 犠牲者の冥福と早期解決 早期復興を祈る」と訴えた。
 副導師をつとめた小堀光實延暦寺執行は根本中堂内陣で世界平和祈願の護摩を修した。中陣には天台宗宗機顧問はじめ宗内要職者が随喜した。
 そしてこのあと午後3時より、比叡山宗教サミット27周年「世界平和祈りの集い」が執り行われた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

『ビートルズは、
 欲しいだけの金を儲け、
 好きなだけの名声を得て、
 そこには何も無いことを知った。』

ジョンレノン

 1960年代から世界的に人気を得、一世を風靡したビートルズのメンバー、ジョン・レノンの言葉です。名誉も金もすべて実際に手に入れた人間の言葉ですから、重みがありますね。
 なぜ「そこには何も無い」のでしょうか。膨大な富と尽きることのない賞賛が手に入ったのに。今も世界中で、この二つを手に入れるために、計り知れない多くの人々が日々苦闘していることでしょう、それも「命をかけて」。
 どれほどお金をかけても、生身の人間の身体は基本的に変えようがありません。もちろん整形手術とか、外科手術などで身体の一部を変えることがあっても、胃を二つも三つも持つとか、味覚を数十倍鋭敏に変えるとか、身体を十倍にするとか、はできません。できるのは、せいぜいが高級な食材を使った料理を食べるとか、広大な邸宅に住むとか、贅沢な旅行をするとか、ぐらいでしょうか。
 人間にまつわる基本的なことは、貧乏人も金持ちも一緒ですね。つまり、食べて、寝て、住んでという毎日の生活は同じであり、程度の差でしかありません。名声も他人の評価ですから、何ら実態はなくて、まあ、自己愛の糧になるくらいでしょうか。
 となると、幸福であることに目に見える優劣はつけられませんし、数値化はできません。結局、毎日の生活の中で、個人がどれ程幸福感を感じるか、ということになります。例えば、不治の病だと宣告を受けて、後に誤診が判明し、「助かった」という時、ある種の幸福感を憶えます。これなど、元に戻っただけなのに、幸福になるのです。 
 とはいっても、富と名誉の獲得こそが「幸福」であるという考えがこの世界から消えることはないでしょう。
 「そこには何も無い」ことを知るために、今日も、富と名誉を必死で追い求める人々の姿が絶えることはないでしょうね。

鬼手仏心

「水」 天台宗財務部長 田中 祥順

 40年以上前にイザヤ・ベンダサン氏は「日本人は、水と安全はタダだと思っている」と、その著書「日本人とユダヤ人」で揶揄(やゆ)しました。
 当時、日本は自然が豊かで、治安も安定していましたから、そう言われても「え、それがいけないの?」というのが、大方の日本人の反応でした。
 それから幾星霜。今は、さすがに「水と安全はタダで手に入る」と思っている日本人はほとんどないと思われます。
国際的なテロリズムの横行、大災害、経済不安、環境破壊、大国の武力を背景とした領土拡張問題等々、我々を取り巻く環境は激変したからです。
    
 しかし、考えてみれば、古来より水を手に入れるのに難儀を極める人々がおり、他国からの侵略に怯える国々があった。それが「世界の常識」であったわけです。
 ほんのわずかの期間だけ日本は平和を謳歌し、繁栄はとめどなく続くものと信じていたのです。そして「どんなことでも(カネを持っているなら)可能ならざるはなし」というような脳天気な中で生きていたといって過言ではありません。
 しかし、かなり不安定になったとはいえ、日本ではまだまだ質の良い水も、安全も格安で手に入ります。素晴らしい国だと思います。
 海外旅行に行けばわかりますが、水はお金を出して買わねばなりません。いや、いつの頃からか日本でも水はお金を出して買うものになってしまいましたが……。
 私は、日本の水は世界一だと思っています。
 その清冽さは、世界に類をみません。世界遺産となった日本料理も、日本の水あればこそでしょう。
 サラリとして、なおかつ滋味を感ずるものが、水でも、人でも、人生でもベストワンだと思います。

仏教の散歩道

人間の商品価値 

 昔、大阪の商人は、傲慢な人、威張りくさっている人に対して、
 「おまえ、なんぼのものやねん?!」
 と、挑発的に言いました。なんぼというのは「どれほど」「いくら」といった意味で、「おまえの値段はいくらか?」と問い尋ねているのです。つまり、これは、人間を商品扱いにした言葉です。
 だから大阪人はいやらしい、と、そう言わないでください。じつはこれ、反語的疑問文です。
 いやらしいといえば、現代日本人はみんないやらしい人間になっています。だってわれわれ現代人は、その人の年収の多少によって偉さを査定していますよね。あの人の年収は一億円を超えている。だから偉い人だ。そう思っています。人間を測る物差しが金銭になっているのです。いやらしいったら、ありゃしない。
 ところが、昔の大阪人は違いました。
 「おまえ、なんぼのものやねん?!」というのは、表面的には年収の大きさを尋ねた言葉です。ですが、これは金持ちを相手に言う反語です。
 「なるほど、おまえさんは年収が高そうだ。そやけど、人間の本当の値打ちは、その人が金を持っているかどうか、そんなもんでは決まれへんで。金は持っていないが、立派な人は大勢いる。おまえは金を持っていても、本当に立派な人と言えるかどうか…。おまえの本当の値打ちは、いったいいくらか? ひょっとしたらゼロではないか。そんな人間が金持ちだからといって威張るな!」
 そういった意味が、「おまえ、なんぼのものやねん?!」です。ですから、これは、金持ちや権力者に向かって言う言葉です。昔の大阪人は、そういう意味で反骨精神の持ち主でした。
 現在の大阪人はどうか? どうやら大半の大阪人が反骨精神を失っているようです。
     *
 この大阪人の「おまえ、なんぼのものやねん?!」を、中国唐時代の禅僧の臨済義玄(りんざいぎげん)(?―八七六)が次のように言っています。
 《赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人(しんにん)あり、常に汝等諸人の面門(めんもん)より出入す。未だ証拠(しょうこ)せざらん者は看(み)よ看よ》
 赤肉団とは、われわれこの肉体です。この肉体の上に、肉体を超越した「真人」、すなわち真の人間がいます。その真の人間はまったく無位です。社長だ、部長だ、首相だ、金持ちだ…と、そんな肩書きに分類されない、真の人間、丸裸の人間です。その真の人間が、われわれ目から、口から、耳から出入りしている。なのにおまえたちは、どうしてその真の人間を見ようとせず、肩書きばかり見ているのか?! 臨済はそうわれわれを叱っているのです。
 だとすると、昔の大阪人は偉かったんですね。

カット・酒谷 加奈

ページの先頭へ戻る