天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第136号

テーマは「いのち」「おもいやり」
各教区で一隅を照らす運動推進大会開かれる

 六月に入り、「一隅を照らす運動」の推進大会が一日、三岐教区、七日、東海教区、十一日、東京教区、十三日、神奈川教区、十九日、兵庫教区、二十二日、北陸教区と相次いで開催された。大会では、信仰と実践に基づいて平和で明るい世の中を築こうという基本理念を確認すると共に、十一月に福島県で開かれる四十五周年の大会に向けて、東日本大震災をはじめとする被災者や苦境にあって苦しむ人々への救援活動を持続的に行うことを改めて誓った。

 一日は、三岐教区の推進大会が圓興寺(大垣市・神藤誠真住職)で開催され、池田智鏡師(九州西教区普光寺住職)が法話と筑前琵琶を演奏、法話では人とのつながりや縁の大切さを説き、参加者も熱心に聴き入っていた。七日に名古屋市で開催された東海教区(中村廣文教区本部長)は、四年に一度の拡大した推進大会で、阿曽沼慎司京都大学iPS細胞研究所顧問と比叡山十二年籠山行を満行した宮本祖豊師(比叡山居士林所長)が講演を行った。
 東京教区(杜多徳雄本部長)では、十一日、浅草公会堂で大会を開催、約五百名が参加。法要、実践者表彰などの後、上田紀行東京工業大学教授が「よき種をまく仏教」と題する講演が行った。
 次いで十三日は、神奈川教区(溝江光運本部長)の推進大会が秦野市文化会館で行われ、檀信徒約五百名が参加。土屋慈恭大会実行副委員長の一隅法話と多田孝文師(同教区・大聖院住職)の「意(こころ)ゆたかに」と題する講演があった。
 兵庫教区(雲井明善本部長)は、十九日に兵庫県多可町で推進大会を開き、檀信徒ら約三百名が参加、兵庫県立歴史博物館学芸課の堀田浩之氏の講演などが行われた。
 また北陸教区本部(天谷良永本部長)では、二十二日、石川県珠洲市において大会を開催、約五百名が参加した。他宗派の僧侶も加わって合同の歎仏会法要や同教区僧侶による大般若転読法要、岩尾照尚同教区宗議会議員らによる演奏、モンゴルの馬頭琴の演奏などが行われた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

一人は米を食べる人、いま一人は米を作る人、
食べる人は抽象的になり易く、作る人はいつも
具体の事実に即して生きる。

鈴木大拙『日本的霊性』

米は収穫するまでに、八十八の手間が掛かるから「米」というそうですが、実際は、それ以上の世話がいると聞きます。
 種を準備するところから収穫まで、 米を作る農家の人の苦労は並大抵ではありません。稲を順調に育てるためには、いつも目の前に現れる問題を処理していかねばなりません。
 気温や風雨、干ばつ、など天候対策や、害虫・害獣の駆除など。つまりは自然を相手にするわけですから、いつもいつも具体的な行動が要求されるのです。
 一方、米を食べる人、消費する側は、米が穫れるまでの具体的な、様々な出来事など知りません。ただ食べ物としてある「米」しか知りません。
 当然、同じ「米」でも、「米」が持つ概念に大きな違いがあります。具体的事実の詰まった「米」と、単なる食物の一つにすぎない「米」との違いですね。
 もちろん鈴木大拙のこの言葉は、「米」を例にとって、農業や漁業などの第一次産業、工業など物作りである第二次産業と、サービス業や金融などの第三次産業との違いを述べていることにもなります。
 人間の長い歴史から見れば、第三次産業、特にIT社会といわれるような仮想世界などは、最近のことです。
 長い長い間、具体的事実の積み重ねの中で生きてきた人間には、ストレスの溜まる、慣れない世界なのでしょう。現生人類がアフリカに現れたのが約二十万年前と言われますが、IT社会などは、ほんの二、三十年に過ぎません。人間が順応するには長い時間がかかることでしょう。
 最近、仮想世界から逃れ、農業や林業の実業に身を投じる若者が出てきているという話を聞きます。「具体的事実に即して生きる」ことに価値を見いだしてきたのでしょうか。興味深いことです。

鬼手仏心

ポジティブとネガティブ                                                 天台宗一隅を照らす運動総本部長 横山 照泰

 アップルコンピュータの生みの親であるスティーブ・ジョブズは「貪欲であれ!愚直であれ!」(ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ)と言った。飽くなき探求心と素直な感性を忘れるなということか。
 コンピュータの発明によって人間は机上であらゆるものをシミュレートできるようになった。
 意外に思われるかも知れないが、欲しい情報を一瞬のうちに与えてくれることが、コンピュータの良くないところである。使い手は受け身で、何も考える必要がない。
 だから、ジョブズは、それではいけない、自分の脳を積極的に働かせ、自らの感性で処理しようと、呼びかけているのだと思う。
 人間は、自らの意思でストレスをかける場合―例えば夜遅くまで勉強するとか、厳しいトレーニングをするといったこと―には、ストレス反応が出ないという。これがポジティブな生き方だ。ところが、やらされていると思った途端、ストレス反応が起こるという。こちらはネガティブな生き方になる。
 人間の脳は、同じ出来事でも、心の持ち方次第で、正反対の結果を招いてしまうのだ。
 パソコン、スマホに振り回されているというのは常に受け身である。ネガティブ思考にならざるをえない。
 一度、文明の利器を置き、積極的に戸外に出て、自然の息吹を感じ、生命溢れる世界を貪欲に感じ取ってみてはどうだろう。
 きっと、自分が如何にこの世界で「生かされている」ということが分かってくる。自ずから感謝の気持ちも涌き、ポジティブな心も取り戻せるだろう。現状への不平不満も少なくなるのではないだろうか。
 パソコン、スマホに乗り切れない人も自信を持って人間臭く生きていただきたい。

仏教の散歩道

貧乏神と福の神

 時宗の開祖の一遍(一二三九―八九)が次のように言っておられます。
 《苦をいとふといふは、苦楽共に厭捨(えんしゃ)するなり。苦楽の中には、苦はやすくすつれども、楽はえすてぬなり。楽をすつるを厭苦の体とす。その所以(ゆえん)は、楽の外に苦はなきなり》(『一遍上人語録』)
 〔苦しみを嫌悪するのであれば、苦と楽をともに捨てねばならない。苦と楽のうち、苦のほうは簡単に捨てることができるが、楽のほうはなかなか捨てられない。楽を捨てることこそが、苦しみを嫌悪することにほかならない。なぜかといえば、楽のほかに苦しみはないからである〕
 ちょっと分かりにくいかもしれませんが、これを貧乏と金持ちの例で考えるとよいでしょう。わたしたちは、誰もが貧乏を嫌悪します。しかし、本当に貧乏を嫌うのであれば、貧乏と同時に金持ちになりたいといった気持ちも捨てるべきです。金持ちになりたいといった気持ちがあるからこそ、貧乏が苦しみになるからです。
 『涅槃経(ねはんぎょう)』という大乗仏教の経典に、吉祥天(きちじょうてん)と黒闇天(こくあんてん)が登場します。吉祥天は福の神で、黒闇天は貧乏神です。ある商家に吉祥天が訪れます。商家の主人は、もちろん大歓迎です。
 ところが、その吉祥天と一緒に黒闇天が入ろうとします。商家の主人は、貧乏神を追い払います。すると、その貧乏神の黒闇天が言ったのです。
 「あら、わたしたちは姉妹なのよ。吉祥天とわたしはいつも一緒に行動しているのよ。わたしを追い払えば、姉の吉祥天も出て行くわよ。それでいいの……?」
 商家の主人は困りました。しかし、いろいろと考えた末、吉祥天と黒闇天の二人の女神に出て行ってもらうことにしました。
 ここで考え方としては、貧乏神と福の神の両者をともに受け容れるか、『涅槃経』のように両者をともに断るか、二つの方法があります。一遍は、『涅槃経』の考え方と同じく苦と楽―貧乏神と福の神―の両方を断ったほうがよいと言っています。しかし、貧乏神と福の神の両方を受け容れるやり方も、それほど悪いものではありません。
 ところが、われわれは、福の神だけを招き入れ、貧乏神は追放したいと思ってしまいます。そんなことはできっこないのに、欲があるもので、そうしたいと思うのです。その結果、苦しみの人生を送ることになります。
 幸福と不幸は、一枚のコインの裏表なんですよ。健康な人は、自信があるもので、どうしても無理をしがちです。その結果、大怪我をしかねません。病弱な人はあまり無理をしません。のんびり、ゆったりと生きて、あんがい長生きをします。苦しみを嫌うのであれば、楽しみも嫌ったほうがよい。一遍はそのように言っているのです。

カット・酒谷 加奈

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