天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第135号

木ノ下宗務総長が初訪中
―半田座主猊下の親書を允観・国清講寺住持へ―

 天台宗では、木ノ下寂俊天台宗宗務総長を団長とする参拝団を組織し、去る五月十六日より十八日までの三日間の日程のもと、中国天台山国清講寺を正式参拝した。
 参拝団一行は、十七日、国清講寺大雄宝殿において法楽を厳修した後、允観(いんかん)・国清講寺住持と面会、高祖天台大師の御廟である真覚寺を参拝するなど、中国天台山国清講寺との友好を深めた。

 中国天台山は、天台大師が修行された山で、遣唐使と共に中国に渡った伝教大師が八〇四年に入山され、天台学を学ばれた地である。
 帰国された伝教大師は、桓武天皇に帰朝報告を行われ、延暦二十五(八〇六)年には天台宗が公認されている。
 したがって天台山は、日本天台宗のルーツであり、聖地といえる。中国と日本天台宗との交流は、国清講寺から一九六四年に金字「妙法蓮華経」が延暦寺に寄贈され、翌年、即真周湛(つくましゅうたん)第二五一世天台座主猊下を代表とする「日本天台宗使節団」が戦後初めて訪中し、友好の歴史を刻んで以来のことである。
 今回の正式参拝は、平成二十四年十一月の允観国清講寺住持の晋山式に、西郊良光宗機顧問が天台宗代表として参列してから初めてのもので、木ノ下宗務総長の他には、武覚超比叡山延暦寺執行、小川晃豊天台宗宗議会議長、中島有淳天台宗教学部長らが参加した。
 允観国清講寺住持との面会式では、木ノ下宗務総長が半田孝淳天台座主猊下の「私の心は、我祖傳教大師最澄様が万里の滄溟(そうめい)を渡られ、求法された、天台山に深甚より思いを馳せております。国清講寺様と日本天台宗が仏縁において今後更に深い関係が築かれんことを念願いたしております」との親書を読み上げ、今後ますます、友好関係を深めていきたいとの意を伝えた。
 なお席上、木ノ下内局一同で写経した『妙法蓮華経』が贈呈され、天台山に納められることになった。 
 国清講寺には、平成二十一年五月に半田座主猊下を名誉団長とする訪中団が参拝している。同訪中団は、「天台宗開宗千二百年慶讃大法会」の円成を受け、報恩奉告のために派遣されたもので、日中の僧侶による合同法要が執り行われている。またその際、半田座主猊下揮毫による「天台宗永永流傳」と刻まれた記念碑が建立されている。
 参拝団一行は、国清講寺を訪れた後、天台大師の御廟のある真覚寺を参拝し、回向を行った。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 知ってると思いますが、私たちは自分たちの
食べる食べ物のほとんどを作ってはいません。
私たちは他人の作った服を着て、他人のつくっ
た言葉をしゃべり、他人が創造した数学を使っ
ています。何が言いたいかというと、私たちは
常に何かを受け取っているということです。

スティーブ・ジョブズ

 コンピュータの「マック」で知られるアップル社の創設者の一人であり、アメリカきっての革新的技術者・実業家といわれる故スティーブ・ジョブズ氏の言葉です。
 この言葉のあと、「そしてその人間の経験と知識の泉に何かお返しができるようなものを作るのは、すばらしい気分です」と続けています。
 かの物理学者、アインシュタインも「わたしは、一日百回は、自分に言い聞かせます。わたしの精神的ならびに物質的生活は、他者の労働の上に成り立っているということを」と言っていますが、この言葉などは、ジョブズ氏の言葉を言い換えたように思えます。
 私達の生活は、時間の流れにおいては、人間が創り出した過去からの膨大な経験と知識に支えられ、空間的に見れば、世界中の経済的、政治的、文化的な繫がりの中にあります。
 その中で、互いに支え合いながら生きているわけです。だから、そこから得た恩恵に対しお返しをするという立場こそが、この世界で生きる姿勢だと言うのです。
 このように私達は、あらゆる方面からの恩恵によって成り立っているのですから、当然「私という人間は、私一人の力で存在しているのではない、全ての人間と繋がっている」という考えに行き着くわけです。
 だから全世界は、何らかの関係で結びついているという考えからは、例えば、この地球上で苦しみ悩み、絶望の淵にいる人々に対し、無関係・無関心でいることはできなくなります。「私には関係ない」という言葉で、この世界は切り捨てられないのです。
 ジョブズ氏のこの言葉は、忘れてはならない言葉だと思います。

鬼手仏心

猫にウグイス 天台宗教学部長 中島 有淳

   
 「お寺にウグイスが死んでいたので埋めたい…」と小学生の女児が訪ねてきました。めったに目にしない鳥の死にショックだったようです。同時に、それまで美しい声で鳴いていたウグイスの声が、ピタリと聴けなくなってしまいました…。
 実は数年来近所の家の三毛猫が、日中を境内で過ごしています。参拝者にも可愛がられ、なかには猫に会いに来る人も。この猫を寺ではベンガルと命名。このベンガル、いつもゴロゴロとしているのですが、時折緊張して虎の如く姿勢を低くして、獲物にゆっくりゆっくり近づきます。狙いは大抵野鳥で、その姿はまさにハンターのようです。
 これまでにベンガルは、稀に野鳥を捕まえることがありました。でもその鳥を食べるわけではなく、いわば本能や習性によるものでした。
 いやな予感です。現場を目撃した訳ではありません。でも確信があります。特にベンガルの知らんぷりの表情が、その犯行を物語っています。ベンガルを叱っても仕方ありません。ウグイスもベンガルにとっては『猫に小判』だったわけです。急に寂しくなってしまいました。
 そんなある日、ホーホケキョという鳴き声が。どこからかまた新しいウグイスが来てくれたのです。しかも今度のウグイスは、行動範囲も広く、居場所が定まりません。これではベンガルも狙う隙もないようです。
 ホーホケキョ(法ー法華経)
 ホーホケキョ(法を聞けよ)
 と鳴くウグイスは、お寺によく似合います。
 一方、今日もベンガルは人の言うことなどおかまいなしで、気に入らなければ見向きもせず、耳だけは動かして、悪い意味で唯我独尊です。

仏教の散歩道

危機を救う仏教の思想

 孔子の弟子の子貢(しこう)が、地方を旅行していました。すると、一人の老人がかめに水を汲んで、えっちらおっちらと畑に運び、作物に水をやっています。見ておれない…ということで、子貢が老人に言いました。
 「ご老人よ、最近はもっといい道具がありますよ。それを使えば、仕事がはかどり、ご老人も楽ができますよ」
 「ほう、どんな道具かね?」
 「はねつるべと呼ばれるものです。便利なものですよ」
 「いやいや、はねつるべであれば、わしだってよく知っているよ」。
 老人は、便利な道具を知っていながら、あえて使わないのです。「なぜか?」と尋ねる子貢に、老人は次のように答えました。
 「機械(きかい)あれば、必ず機事(きじ)あり。機事あれば、必ず機心(きしん)あり」。
 機械(つまり道具のことです)ができると、便利なもので必ず仕事はそれを使ってするようになる。そうすると、人間の心は、どうしても機械の心になってしまう。そのような意味です。
 これは中国古典の『荘子』(外篇)に出てくる話です。
 わたしは、現代の世相を考えるとき、いつもこの話を思い浮かべます。
 現代社会はたしかに便利な社会になりました。昔であれば、てくてく歩いて行かねばならない距離を、いまはあっというまに自動車で行くことができます。そうなると、便利なものだから、ついつい自動車を使うようになります。わたし自身はマイカーを持っていませんが、地方に講演に行ったとき、ホテルから会場まで、歩いて十分もかからない距離を移動するため、わざわざタクシーを用意してくださるのです。都会人のわたしは、〈歩けばいいのに…〉と思いますが、自動車を使う生活に慣れた地方の人は―いや自動車がなければ、地方では生活できなくなったのですが―、ほんの少しの距離でも自動車を使うようになるのですね。それが機械あれば機事ありです。そして、機事あれば、機心ありです。
 その結果、わたしたちは機心になりました。
 たとえば、原子力発電だって、わたしたちは大量の電気を使用することを前提に、物事を考えます。その大量の電気を確保するためには、危険があっても原子力発電に頼らざるを得ない、と考えてしまうのです。その考え方が機心です。
 わたしたち仏教者は、そういう機心を捨てて、やはり仏教の教えである、
 ―少欲知足―
 に立ち戻るべきです。欲を少なくし、もうこれで十分ですと思う。そういう人間らしい心が、現代社会の危機を救ってくれる。わたしはそう考えています。

カット・酒谷 加奈

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