天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第131号

天台宗で防災士研修講座を開催
防災知識を持つリーダーの育成を目指す

 「天台宗・防災士研修講座」(主催 天台宗・天台仏教青年連盟)が昨年、十二月十七、十八日の二日間にわたり開催された。「防災士」とは、特定非営利活動法人『日本防災士機構』による民間資格で、災害時の防災リーダーとして活動する役目を担う。天台宗では「天台宗教師の防災意識、知識を向上させることで、地域防災力向上に寺院が寄与するため、全教区に最低一名の防災士資格取得教師を誕生させる」ことを目的として講座を開設したもの。講座修了後には、資格取得試験が行われ、後日の合否判定で四十五名の防災士が誕生した。

 防災士制度は、阪神・淡路大震災を教訓として民間の防災リーダーを養成する目的で創設されたもので、その推進母体として、NPO法人『日本防災士機構』が平成十四年に設立された。そして、平成二十三年、東日本大震災が発生し、その災害への対応において、迅速・的確な行動の重要さが痛感され、改めて防災士の育成が求められた。
 天台宗でも、支援活動の上で、防災士育成が急務であるとの認識を共有し、特に、ボランティアとして現地で支援活動を多く行った仏教青年連盟の中からその声が高まった。
 今回、同講座には、各教区などから青年僧を中心に多数が参加、連日午後六時頃まで「災害情報と災害報道」「地震の仕組みと被害」などの講座や「普通救命講習」などの実技講習を熱心に受講した。
 参加者からは「災害時に実地でしなければならない数々のことがよく分かった。災害初期段階では、国や自治体による公的な救援活動を待つまでに防災士の役割がいかに大切か痛感した。ここで学んだ講座内容を教区に持って帰り、広く伝えていきたい」との感想が聞かれた。
 こうした防災士資格取得の講座の実施は、仏教界ではまだ始まったばかりという。担当した社会部では「今回の資格取得者が各教区に帰り、防災活動の核となって啓発に努めてもらえれば幸いと思う。今後の災害に備え、寺院がどのように支援活動を行っていくか、その第一歩と言える」と語っている。
 災害が発生した時、国や自治体による救援活動が機能する前に必要となる活動として、「自助」(自らを守る行動)と「共助」(地域市民と共に助けあう行動)がある。
 大地震襲来が囁かれる今日、その際の活動実践の担い手である防災士の育成は、地域のコミュニティに生きる寺院に要請されていると言えよう。宗教者にとって地域防災力の向上は、「心のケア」など精神的な支援と両輪となるものであろう。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

大阪の人がよく書いているじゃない。
「東京のうどんなんか食えない…」って。
ああいうのがばかの骨頂というんですよ。
なんにも知らないんですよ。

男の作法 池波正太郎

 なにやら大阪人に対する挑戦的な言葉のようですが、実は違います。
 池波さんは京都・大阪など、関西の味にも精通していて、美味い店もよく知っておられました。「確かに東京のうどんは、ぼくらでもまずいんですよ。おつゆが辛いんだから。うどんはやっぱり上方(かみがた)の薄味のおつゆのほうが、ぼくらでもうまいんですよ」と池波さんは続けています。そして「だけど、それは、それぞれの土地の風土、あるいは生活によってみんな違うわけだからね」と。
 関東平野に位置する江戸は、京都、大阪と違って気候が厳しい面がある。更に気候が厳しい上越、東北などから多くの人が集まって、きつい労働の日々を送る庶民が暮らす地でした。
 そんな土地である江戸、後の東京では、塩分の効いた濃い味付けが好まれるのです。上方でも、厳しい労働が要求される地域では、濃い味付けの料理を食べさせる店があります。それは、ちゃんと生理的要求に合わせているわけです。
 そして池波さんは「本当の大阪の人は決してそういうことは言いませんよ。また、東京の人も、本当の東京の人だったら決して他国の食いものの悪口というのは言わない。一番いけない、下劣なことだからね」と言います。
 これは何も食べ物に関してだけじゃなく、人の評価にも言えることでしょう。先入観を持って人を見るのではなく「なぜこの人はこんなことを言うのだろう」と自分を離れて理由を探るということでしょうか。そうすると、案外に自分が偏った見方をしていたことに気づき、相手との接し方も変わってくると思います。
 江戸っ子自慢についても「何も江戸っ子だとか、東京っ子だとかそんなことを自慢することはないんだからね」と池波さん。
 やはり、食べ物も人間も違っていてこそ、いいわけでしょうね。ちゃんと合理的な理由があるんだから。

鬼手仏心

己心中(おのれこころのなか)  天台宗教学部長 中島 有淳

   
 年に数回、浅草の方面に出向く機会があります。いつも決まって某寺の山門掲示板を見て通ります。これが又、楽しみの一つなのです。
 ずっと以前のそこには、『どうせ毎日飲む水ならば もっと楽しそうに飲め!』と大書してあって、思わず立ち止まって笑ってしまい、歩き出して「成る程」と感心してしまいました。それ以来、その掲示板のファンなのです。
 先日、そこを通った折には、『極楽を願うより 地獄を作ることなかれ』とあり、「成る程、成る程」と感服しました。
 誰でも極楽を願います。極楽というと素晴らしい処で、苦しみもなく幸せな満ち足りた世界を連想します。この世でいうならば快適な家に住み、家庭円満で健康で、お洒落な服を着て、美味しい物が沢山食べられ、お金もあり、好きに旅行や演劇を観たりしている・・・といったところでしょうか。地獄はこの反対と考えれば明解です。
 しかし仏教的な物の考えからいうと、この標語の「極楽を願う」という極楽は仏さまの世界の極楽でなく、世間的にいう極楽です。ここでは、そんな世俗的な極楽を願っていると地獄を作ってしまいますよ、と警告を発しているのです。更に、そんな世間にありがちな自分勝手な極楽を願うことは、内容によってはそれが地獄なのですよ、と言っているのです。そして「地獄を作ることなかれ」という慈悲の気持ちそのものが、実際には仏の極楽世界であることを知るのです。
 つまり、この標語は、「ゴージャスな世間の極楽はともすれば地獄であり、地獄を作らないように心掛ける気持ちが、仏の極楽世界です」と言っているのでしょう。ここら辺りが仏教の難しさ、ややこしさかもしれません。

仏教の散歩道

犬猫の極楽往生

 「犬や猫もお浄土に往生できますか?」
 浄土宗の僧侶からそんな質問を受けました。仏教教学においては、極楽浄土には地獄・餓鬼・畜生の三悪趣(あくしゅ)(三つの苦悩の世界)がないとされています。したがって、教学的には極楽浄土には畜生がいないのです。そのことは、質問者はよく知っています。しかし、最近の日本人はペットをかわいがります。ペットの葬式や、四十九日の法要、一周忌、三回忌までやるそうです。そういう人々から、
 「このペットと、再びお浄土で会うことができるのでしょうか?」
 と尋ねられたとき、にべもなく「会えない」とは答えられない。「会えるよ」と言ってあげたい。だから、「会える」と答えていいか。そういう意味の質問でした。
 あまり時間がなかったもので、わたしは彼に、そのときは、
 ―相手に迎合して仏教の教えを説いてはいけない―
 とだけ答えておきました。過去の日本の仏教教団は国家権力に迎合して、敵兵を殺すことが仏教徒の義務だと説きました。権力に迎合するのも、檀信徒に迎合するのも、同じことです。誰かに迎合して教えを説けば、仏教は歪められてしまいます。わたしはそれが心配です。迎合してはならないと思います。
 では、ペットと再びお浄土で会うことができますかと問われたとき、どう答えればよいでしょうか・・・?
 わたしであれば、
 「もちろん、会うことができますよ」
 と答えます。そして、二、三秒、間を置いて、
 「でもね、あなたは同時に、野良犬や野良猫、蠅や蚊、ゴキブリにも会いますよ」
 と付け加えます。
 これが仏教の考え方だと思います。
 わたしたちは、お浄土において自分の好きな人と再会できると思っています。そして、嫌いな人には会わないと思っている。でも、お浄土が、自分の好きな人ばかりが集まった世界だとすれば、それは宮中の奥御殿かハーレムでしかありません。そんなものはお浄土ではないのです。
 ところが、お浄土において嫌いな人にも会うと分かると、こんどは、
 「では、わたしは、お浄土に往くのはやめにします。私は地獄に行きます」
 と言う人が出て来ます。あの憎いお姑さんに会うくらいであれば、地獄のほうがいいと考えるのですね。
 要するにわたしたちは、愛と憎しみでもってお浄土を考えているのです。しかし、お浄土は、愛と憎しみを超越した世界です。ペットを愛するのはかまいません。それはこの世においての話です。お浄土は、そのような愛と憎しみを超越した世界だということを忘れないでください。

カット・酒谷 加奈

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