天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第130号

―海外開教40周年を祝う―
根本中堂で記念奉告法要 天台宗海外伝道事業団

 昭和四十八年十一月にアメリカ合衆国ハワイ州ホノルル市のジャックレーンに「天台宗ハワイ別院」が開院した。戦後天台宗の海外開教の幕開けである。現在では、天台宗の開教拠点はハワイのみならず、インドやイギリス、北米等々にも延び続けている。これを受けて天台宗海外伝道事業団(山田俊和理事長)では、昨年十一月二十七日に総本山延暦寺根本中堂に海外開教使が集い、四十周年記念奉告法要を厳修。また翌二十八日には天台宗務庁大会議室において記念シンポジウムを開催した。

 根本中堂で厳修された奉告法要では、導師を半田孝淳天台座主猊下が勤め、木ノ下寂俊天台宗宗務総長はじめ天台宗内局と延暦寺内局が出仕するなど、海外伝道に対する大きな期待をうかがわせた。
 奉告法要およびシンポジウムに参加した開教使は、ハワイ、アメリカ本土、インド、ブラジル、デンマーク、イタリア、カナダ、オーストラリアから、十二名。式典やシンポジウムには世界各地より関係者ら約百名が参加した。
 四十周年記念奉告法要では、開教使たちは、延暦寺の一隅会館前に整列し、根本中堂に向かった。
 同法要において、半田座主猊下がご本尊宝前に表白文を朗々と奏上。全員が英文での般若心経を読誦して報恩の誠を披瀝した。
 その後の記念式典では、山田理事長が、小堀光詮海外伝道事業団会長の遷化を悼むと共に「世界各地より十二名の開教使を要請し海外開教四十周年記念奉告法要を厳修できるのは、仏天のご加護と宗祖のお導きである。ハワイ別院が開かれて以来、宗祖の御教えは世界各地に弘まっている。多くの人が天台の教えを習得しているが、それらの人を延暦寺に招き宗祖の一隅を照らすご精神に触れてもらいたい。宗祖の御教えを理解し互いに交流を深め、各国の諸事情を話し合う機会を持ちたい」と挨拶。
半田座主猊下からは「天台宗の海外開教は、多くの人々の協力と努力により困難を乗り越えて行われた。深い感激を覚える。世界は混沌として人々は安寧の道を求めている。あるいは世界平和実現の方策を模索している。宗祖大師の御心を体して一隅を照らす人となり、世界平和のために貢献をしなくてはならない。開教使の皆様には、総本山の霊気に触れて、さらに信仰を深めて欲しい」との祝辞がおくられた。
 更に木ノ下宗務総長も「天台の教えが、世界各国に弘まっていくのは皆様の努力のたまものである。更に一層世界に天台の法灯が掲げられることを念願する」と祝辞を述べた。
 また菅原信海副会長(妙法院門跡門主)からは「これからは軸足をアメリカやインドに置きつつヨーロッパ、南米、アフリカへと向かわなくてはならない」との方向性が示唆された。
 最後に参加者を代表して荒了寛ハワイ別院住職は「四十年いろいろあったが、今、ここに来てみれば、世界各国からこれだけの開教使たちが集まってくれている。よかった。私の行動は無駄ではなかったと思う。今日は『まだおまえには仕事があるぞ』といわれたような気分である」と謝辞を述べた。このあと海外開教使たちは浄土院、釈迦堂を参拝した。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

福寿草など 私はながいあいだ
殆どこころにとめて見ることもなかった
今年はじめてである ああ 福寿草もやはりきれいなのだと思ったのは

高橋元吉

 春を告げる福寿草は、別名を元日草という。一月一日の誕生花でもある。
 その名の通り初春のめでたさを言祝(ことほ)ぐ花だ。師走になるとヤブコウジなどと寄せ植えされて店頭に並ぶ。小振りの化粧鉢に鉢植えされた福寿草を見ると「ああ、もうすぐお正月だなあ」などと思う。
 この黄色い可憐な花を愛(め)でることはするが、ではどんな生態を持つ草なのか、あまり知らない。植物辞典によると、春に花を付け、夏になると土から上の部分は枯れて、次の春まで地中で過ごすという。
 夏以降、次の春まで地下暮らしをするだけに、根がよく発達する。根には、強心作用があり、利尿作用もあるとかで、民間薬として利用されてきたようだ。
 だが同時に、毒性も強くあり、素人が用いると場合によっては、死に至ることもあるという。春先、芽を出した福寿草を、ふきのとうと間違えて食べてしまい、中毒になったというニュースを聞いたことがある。
 花言葉は、「永久の幸福」、「幸福を招く」、「祝福」などとある。
 「永久の幸福」という花が毒を持つというのは、何か意味深長な気もする。甘味を増すには、ちょっと、砂糖味に塩を足すのが良いという。これと同じなのかもしれない。加減が難しいということか。幸福もちょっぴり毒を含むからこそいいのかも。つまり、あまりに追い求め過ぎると、毒に転ずるのが幸福ということかも知れない。そういえば、この花の花言葉に、こんなのもあった。「悲しき思い出」。一転、幸福が悲しき思い出になることもあるということか…。
 子どもの頃は、正月に飾られる黄色い花としか感じなかったが、だんだんと歳を経てくると、この詩のように、花の少ない冬の時期に咲くこの福寿草を「いいなあ」と思うようになった。

仏教の散歩道

この世における役割分担

 キリスト教の『新約聖書』に、
《貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである》(「ルカによる福音書」六)
 といったイエスの言葉があります。神の国というのは、神の支配の意味です。いま、この世は、人間が支配しています。人間が支配すると、どうしても金持ちが得をし、貧乏人は不幸になります。しかし、イエスは、もうすぐこの世は神が支配されるようになる。そして、神が支配するようになれば、貧しい人が泣かずにすむ。貧しい人が幸福になる。そう考えました。それがイエスの言葉なんです。
 では、仏教はどう考えるのでしょうか?
 仏教は、この世を「ご縁の世界」と考えます。「ご縁」というのは、みんながつながっているということです。金持ちがいるから貧乏人がいるのであり、貧乏人のおかげで金持ちがいるのです。優等生がいるから劣等生がおり、消費者がいるから生産者がいます。世の中の人の全員が優等生になれません。全員が金持ちになれません。劣等生がおり、貧乏人がいてくれないと困るのです。それが「ご縁の世界」です。
 そうすると、金持ち/貧乏人、優等生/劣等生といった存在は、この世における、
 ―役割分担―
 になります。誰かが金持ちの役割を務めるのであれば、必ず別の人が貧乏人の役割を務めねばなりません。勝ち組の役割を務める人ばかりでは世の中は成り立ちません。負け組の役割を務める人がなければならないのです。
 でも、誰も、貧乏人や負け組の役割を務めたくありません。
 そこで、わたしはこう考えます。阿弥陀仏が、「きみね、貧乏人・劣等生・負け組の役割をやってよね」と頼まれたのだ、と。別役、阿弥陀仏でなくてもいいのです。釈迦仏にしてもいいし、大日如来にしてもいい。ともかく仏が、人々にお願いされたのです。いやな役割、損な役割を務めてくれるように、と。
 だから、仏から貧乏人、負け組の役目を頼まれた人は、一生懸命その役目をやってください。卑下する必要はありません。これが仏から頼まれたことだと、堂々と胸を張って生きてください。
 そして、わたしたちはこの世の生を終えて、やがてお浄土に往きます。
 そうすると、きっと仏が、あなたをねぎらってくださいます。
 「ごめんね、きみにそんな役割を与えてしまった。でもね、誰かが損な役割をしなければならないのだよ。それを、きみが立派に果たしてくれた。ご苦労だったね。ありがとう」。
 わたしはこのように考えますが、こう考えると、仏教においても、「お浄土は貧しい人そのものだ」ということになると思います。

カット・酒谷 加奈

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