天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第125号

『戦歿者慰霊・世界平和の祈り』法要
岡山・山陰・四国教区合同で営む

「ノーモアヒロシマ」を次世代へ
  
 7月14日、『戦歿者慰霊・世界平和の祈り』法要が、広島市平和記念公園の原爆供養塔前において厳修された。同法要は、平成17年に岡山・山陰・四国教区合同で始められたもので、本年で9回目。先の大戦の犠牲者の回向と、悲惨な戦争体験と平和の大切さを風化させないために、毎年営まれている。

 同日の法要は、午後一時半過ぎより、葉上観行岡山教区宗務所長を導師に、見上知正山陰教区宗務所長、水尾寂芳延暦寺一山禪定院住職(延暦寺副執行)及び三教区から約二十名が出仕し、厳かに執り行われた。
 今年の法要も、昨年、一昨年と同様、東日本大震災の犠牲者追悼と被災地の一日も早い復興も祈念された。
 法要に当たって葉上岡山教区宗務所長は「今ある平和な社会は、先の大戦において犠牲となられた尊い命の上に築かれていることを私たちは忘れてはならない。戦争の悲惨さを後の世代に伝え、平和がいかに大切であるかを今後も訴えていくことが必要である。そのためにもこの慰霊の法要を続けていくことが我々の使命でもあり、平和を祈る『行』として持続して行っていきたい」と語った。
 法要が営まれた『原爆供養塔』は、爆心地近くにあり、犠牲者慰霊のために建立された。内部には、原爆投下により亡くなった引き取り手のない遺骨が納められている。
 同日の法要は、戦争体験が風化をしていくことを阻止するためにも、今後も持続していこうという三教区の決意が感じられたものとなった。
 なお同日の法要には、地元広島県の寳性寺の山下義心住職並びに檀信徒も参列し、戦歿者に真摯な祈りを捧げていた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

ただただ「慈悲」のために「慈悲」を実践する。
それが心の修行だと思う。
         

「心の『寺』を観る」 佼成出版刊 パリ国立高等研究院教授 ジャン=ノエル・ロベール

 ロベール博士は一九七二年に、信子夫人と結婚するために初めて来日し、当時の東京の猥雑さに「自分の抱いていた日本のイメージと違う」と「気分が悪くなった」といいます。
 しかし夫人の実家のある名古屋市で、こぢんまりとした旅館に泊まり、古風な桧造りの風呂に入り、浴衣を着て、天井を見上げた時に「自分が心に描いていた日本がそこにあった」という感激が訪れたというのです。古き良き日本を愛する知日派です。現代の日本人よりも、よほど日本人らしい感性の持ち主といってよいでしょう。
 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を思わせますが、博士によれば「小泉八雲は神秘主義だと教えられたので、あまり読んでいません」とのこと。
 博士によれば「私自身、少年の頃から宇宙や天文学に興味を覚えていた」ということですから、はなから怪談とは相容れなかったのでしょう。
 さて著書のタイトルとなっている「心の寺」とは、生きとし生けるものすべてが持つ『仏性』について博士が一般に分かりやすく解説した部分から採られています。
 博士は「人間というのは、一人ひとりが寺である。そして、その寺の中に、仏様、神様が収まっている。だから、仏を拝むというのは、実は私たちの心の一番深いところにある仏を拝むことになる」と解説しています。
 慈悲についても「日本ではボランティアという言葉は、余暇を使った小さな親切運動のようだが、もっと能動的で強い意志が働いている」としてボランティアには「義勇軍」とか「志願兵」という意味があることを指摘しています。
 そして「愛」や「慈悲」を宗教的な意味で実践するのであれば、何か報いを期待したり、あれこれの理由付けをしたりするのではなく、ただそれ自体のためにするのでなければならないと主張されています。

鬼手仏心

人口一千万人時代 天台宗社会部長 村上 圓竜

  
 昨年五月に、金環日食を観た。三百年に一度だという。次の観測年は二三一二年である。十年先も判らない時代に、三百年後を想像することなどは、意味のないことかもしれない。
日本では、少子高齢化が進んでいると思うが、世界も日本も、どんな世界になっているのか、興味津々ではある。だが、想像する糸口が見当たらない。
そんな中「合計特殊出生率」によって三百年後の人口を計算できることが、福岡伸一先生の『生命の逆襲』に載っている。紹介すると「三百年で十世代が交代し、合計特殊出生率がこのままの値で推移すれば、概算で、日本の人口は二〇五〇年ごろ一億を切り、二二〇〇年すぎには江戸時代(三千万人)と同じになります。そして二三一二年には一千万以下になってしまいます。現在の十分の一以下。しかも超高齢者社会です。国土もインフラも様変わりせざるを得ません。わずかな都市部に、肩寄せ合っているのでしょうか」と述べられている。
あまりの衝撃的な数字に何も考えることができない。リニアモーターカー新幹線は?食料事情は?日本は東京だけになってしまうのか?
エネルギー源の化石燃料も枯渇するであろうし、ウランも枯渇すると考えられている。それ故、国土は自然に満ち、自然燃料によってエネルギーを創造し、物質文明に依存せず、精神文明が飛躍的に発展するかもしれない。
その意味では、異文化を受容しながら自然と共生してきた日本文化は、更に発展するかもしれない。そして世界に日本文化を発信することによって、日本に異邦人が溢れ、進化した新しい日本が出来上がるかもしれない。
そんな夢でも見なくては、未来の数字の前に心が折れてしまう。

仏教の散歩道

プラス思考よりも・・・

 遊んでいるときは狭いと思った運動場ですが、小学生がそれを掃除させられるとなると、〈広い運動場だなあ…〉とうんざりします。財布の中のお金が半分になれば、〈もう半分になっちゃった〉と悲観する人もいれば、〈まだ半分残っている〉と喜ぶ人もいます。それが仕事量となれば反対で、〈もう仕事の半分もやった〉とにんまりする人もいれば、〈まだ半分も残っている〉とうんざり顔の人もいます。
 これは、基本的には性格の差なんですよね。だから、おいそれとは変えられないと思います。
 ところが仏教学者のうちには、〈もうお金が半分になった〉〈まだ仕事が半分も残っている〉と悲観せず、〈お金がまだ半分も残っている〉〈もう仕事を半分もやった〉と喜び、感謝の心を持ちなさい、と教える人がおいでになります。俗に、それを
 ─プラス思考─
 と言うのですね。なるほど、マイナス思考よりもプラス思考のほうがよい。それは否定しません。
 だが問題は、それは性格の差であって、そう簡単にマイナス思考をプラス思考に変えられないことです。
 それからもう一つ、仏教の教えは、
 ─如実知見(にょじつちけん)─
 だということです。如実は「実のごとく」 であって、「あるがまま」です。物事をあるがままに見なさい─というのが仏教の教えです。
 あるがままに見るということは、色付けをしないことです。わたしたちは常に色付けをしてものを見ています。いいひと/悪いひと、ありがたいこと/いやなこと、といったふうに事物を自分で持っている物差しで測って受け取っています。その自分の物差しは、つまるところ世間の物差しです。そういう世間の物差しで価値判断をし、病気になれば〈いやだなあ…〉と思うのです。そんな価値判断をせず、あるがままに物事を見なさいというのが「如実知見」です。
 したがって、五千円は一万円の半分でもないし、千円の五倍でもありません。一万円の半分と見て〈少ない〉と悲観するマイナス思考も、千円の五倍と感謝するプラス思考も、ともに、「如実知見」ではありません。五千円は五千円、ただそれだけです。
 わたしは、あらゆる事柄を感謝の心でもって受け止める人間になりなさいと教える仏教学者にあまり賛成できません。それだと、小さな怪我だと大怪我でなかっただけまし、大怪我で死ぬよりはまし、といった考え方にしかなりません。そして、〈ああすれば怪我もしないですんだのに…〉といった悔いが残ります。
 病気になればただ病気になっただけ─と受け止めるのが、仏教者らしい考え方だと思います。

カット・酒谷 加奈

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