天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第124号

慈覚大師1150年御遠忌各教区法要続々と
近畿、滋賀、茨城教区が厳修

 慈覚大師一千百五十年御遠忌の各教区法要が相次いで行われている。五月二十三日には近畿教区(高岡保博所長)、二十五日には滋賀教区(長山慈信所長)、また六月十八日には茨城教区(酒井貫全所長)、が総本山延暦寺で、それぞれ宗務所長を導師として報恩の法要を執り行った。

 近畿教区は、大講堂において二十一名が出仕して法要を執り行った。
 毎年教区部内で行っている春の山家会法要を総本山に移して奉修した形。大講堂では「約二十名ぐらいの出仕が望ましい」とのアドバイスを受けて出仕僧を選んだ。
 高岡所長は「二十歳代から八十歳代まで幅広い年代の僧侶が出仕して報恩法要を厳修できたのは有り難かった」と述べている。檀信徒の随喜は五十八名だった。
 滋賀教区は根本中堂で四箇法要を奉修。出仕僧は四十名、随喜檀信徒を含めて総勢八百十九人で、二座に分けての法要となった。
 準備に一年近くをかけ、出仕者の習礼を行って臨んだ。長山所長は「最初は五百人ほどの予定だったが、希望者が増え続けて八百人を超え、二座に分かれての法要となった。檀信徒と共に観音経を唱え、慈覚大師和讃を読み上げることが出来て、とても良かった」と語っていた。
 茨城教区は、根本中堂において法華三昧を厳修、出仕四十名、檀信徒百六十人が参加した。今回は特に「檀信徒が共に法要に参加すること」に重点を置いて臨んだ。
 酒井所長は「慈覚大師様への報恩謝徳の気持ちを檀信徒と共に披瀝(ひれき)できて有り難い。全員で宗歌や慈覚大師和讃を練習した成果がありました」と感動の面持ちだった。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

君はなんでそんな幸せな環境にいるのに、やりたいことをやらないんだ。

山口絵里子「裸でも生きる」講談社刊

山口さんは、アジアの最貧国バングラデシュのダッカでジュートを材料にしたカバンの工場を設立、日本で販売する株式会社マザーハウス代表取締役兼デザイナーです。
 二十三歳で起業を決意し、現在三十二歳。各メディアで紹介され、二〇一二年には、国際社会で顕著な活動を行い、世界で『日本』の発信に貢献したとして、内閣府から「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の一人に選ばれています。
 その経歴はとにかくパワフル。小学校時代はいじめにあって不登校となります。中学時代は、その反動で非行に走るが、その後「強くなりたい」と工業高校に入学し、「男子柔道部」の唯一の女子部員として全日本ジュニアオリンピック第七位。偏差値四十から三カ月猛勉強し、慶應義塾大学総合政策学部入学。大学のインターン時代に、ワシントンの国際機関で開発途上国援助の矛盾を感じて、バングラデシュを訪問し、日本人初の大学院生となるといった具合です。
 「貧窮をなくすのは、国際機関エリートが 考える『援助』ではなく、働く人が誇りを持てる仕事ではないのか」と山口さんは考えたのですが、実際に目にしたのは、汚職と腐敗と裏切りの世界でした。
 山口さんは、その度に、泣き怒りながら、目の前の壁をガンガンつき破り突き進んでいくのです。そのパワーはハンパではありません。山口さんの人生に影響を与えたのは「バングラデシュで必死に生きる人の姿でした」。きれいな水を飲むためには何キロも歩かなくてはならない。それでも必死に生きている。
 「自分は一体何をしてきたんだ。他人と比べて一番になるなんてそんなちっぽけなことに力を注ぎ、泣いたり笑ったり。こんな幸福な星の下に生まれておいて」と考えた山口さんが出した結論は、「自分自身が信じた道を生きる」ことでした。
 ちなみに社名の由来はマザー・テレサからだといいます。

仏教の散歩道

「南無」の心

 わたしは子どものころ、祖母から、
 「ほとけさまを拝むときに、お願いごとをしてはいけない。ありがとうございましたと言って拝むように」
 と教えられました。その後、仏教を勉強するようになってから、わたしは祖母の教えを自身の言葉で命名して、
 ─請求書の祈りをするな! 領収証の祈りをせよ!─
 と言っています。仏にお願いごとをするのが請求書の祈りで、感謝の祈りが領収証の祈りです。
 では、なぜ請求書の祈りがよくないのでしょうか? 幼時に祖母にそのように尋ねても、祖母は、
 「知らん」
 と言って教えてくれませんでした。祖母は明治時代の学問もない女性ですから、理屈は知りません。ただ、自分も祖父母や両親から教わったことを、孫に教えてくれたのです。
 しかし、考えてみると、祖母の教えは正しいですね。たとえば、われわれが仏に大学受験に合格させてください、と願います。請求書を発行するのです。その背後には、大学に合格すれば幸福になれるといった思い込みがあります。だが、大学に現役で合格したものの、あまり実力がなくて入学後に中途退学せざるを得ない者もいます。それであれば一年浪人して、実力を身につけてから入学したほうがいいのです。
 あるいは、入学して、相性の悪い同級生にいじめられて自殺する青年もいます。一年浪人して入学すれば、すばらしい恋人に出会ったかもしれません。合格したほうが幸福か/不合格になったほうが幸福か、それは分からないことです。
 病気になって、病気を治してくださいと請求書を発行します。ところが、病気が治って健康になり、それで浮気をして家庭を滅茶滅茶にする人もないではありません。病気が治ることがいいことか/悪いことか、そう簡単には決まりません。
 だとすると、わたしたちは請求書を発行せずに、すべてを仏におまかせすべきです。その「おまかせします」の言葉が、仏教語の、
 ─南無─ 
 です。つまり、阿弥陀(あみだ)仏にすべてをおまかせしますというのが「南無阿弥陀仏」、釈迦仏におまかせするのが「南無釈迦牟(む)尼(に)仏」、『法華経』の教えにおまかせするのが「南無妙法蓮華経」です。
 おまかせした以上は、どういう結果になろうと、文句を言ってはいけません。与えられたものが何であれ、それを「ありがとうございました」と受け取るべきです。それが領収証の祈りです。
 したがって、「南無」というのは、仏に請求書を突き付けるのではなく、領収証を発行することです。わたしは、祖母から「南無の心」を教わったのだと思っています。

カット・酒谷 加奈

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