天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第123号

慈覚大師1150年御遠忌御祥当 御影供法要
遺徳を偲び、延暦寺根本中堂において厳修

 去る五月十四日、比叡山延暦寺根本中堂において「慈覚大師一一五〇年御遠忌御祥当御影供法要」が半田孝淳天台座主猊下大導師のもと、厳かに執り行われた。同法要には、各教区代表、延暦寺一山並びに天台仏教青年連盟の僧侶などが出仕、宗機顧問、各門跡寺院門主、大寺住職、宗務所長、宗議会議員など諸大徳が随喜した。また西教寺、園城寺、四天王寺、妙見宗、鞍馬弘教、孝道教団、念法眞教などの縁故宗派・教団も随喜した。

 祖師先徳鑽仰大法会は第一期が平成二十四年四月から同二十七年三月末までの三年間で、慈覚大師一一五〇年御遠忌が執行される。去る一月十三日には「慈覚大師一一五〇年御遠忌御祥当逮夜法要」、翌十四日には「同祥当法要」がそれぞれ営まれている。
 同日の「慈覚大師一一五〇年御遠忌御祥当御影供法要」は、半田座主猊下を大導師に、午前十時三十分から根本中堂において営まれ、宗内外の要職者で満堂の中堂内部は、厳粛な雰囲気に包まれた。法要では、裏千家による献茶や、「T‐BOLAN」の森友嵐士氏による大法会イメージソング『雨上がりに咲く虹のように』の歌唱奉納もあって、厳かな中にも華やいだものとなり、慈覚大師の遺徳を偲ぶ思いが満ちあふれた法要となった。
 法要を終えるに当たり、阿純孝大法会事務局長(宗務総長)は「慈覚大師は遥か彼方に忘れ去られた方でありません。我々にとっては、現実感のある指導者であります。声明や写経など、我々は大師のご業績から多くを学んでおります。今日、一般社会におきましても、声明、写経などへの関心が増え続けています。この現実に即応すべく、我々は尽力しなければならないと考えており、このことこそが大師への報恩行である信じております」と挨拶を行った。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

空(くう)の考え方にあっては、死者と呼ばれる
大兄はこの会場にあまねく存在し、
目の前の花でもあり、空気でもあり、
われわれ自身でもあります。

「空」 司馬遼太郎 開高健への弔辞

 文壇で「追悼の達人」と呼ばれたのは川端康成です。菊池寛、林芙美子、堀辰雄、坂口安吾、尾崎士郎、佐藤春夫、谷崎潤一郎、三島由紀夫をはじめ、弔辞を捧げた名士は枚挙にいとまがありません。
 同時代の作家にとって川端に弔辞を述べてもらうことが「最後の名誉」といわれていました。川端康成自身も晩年には「葬儀の名人」と自嘲していたといわれます。それだけ多くの知友を冥界に送ったという無常迅速の思いと表裏一体だったはずです。
 坂口安吾への「ひとりの作家の葬式につらなり、弔辞を述べるのは自らの幾分かを葬り、弔う思いをまぬがれない」という言葉は名弔辞と評されました。
 弔辞は、もちろん亡くなった人を追悼し、亡くなった人に捧げるものですが、実際は参列している人々に聞かせるものです。川端はそれを熟知しており、故に「追悼の達人」と呼ばれることになったのでしょう。
 一方で、司馬遼太郎が開高健に捧げた弔辞は、やや趣を異にしているように思えます。引用の弔辞は、最後の部分ですが、正確にはこう述べられています。
 「小生は大兄のような人を、歴史の中でも、この浮世においても、見たことがないような気がします。まことに空というのは、いいものであります。キリスト教のように霊魂は存在せず、空の考え方にあっては、死者と呼ばれる大兄はこの会場にあまねく存在し、目の前の花でもあり、空気でもあり、われわれ自身でもあります」。
 この弔辞には技巧(上手い)というよりも、なにやら温かみというものが感じられるような気がします。
 最近、肉親を亡くした人が「花を見ても故人を感じるし、森の中を過ぎてゆく風にも故人がいるなあと思う。それまで、そんなことは思ったこともなかったが、仏教というのはいいものですね」と言っていました。

鬼手仏心

哲学する川柳 天台宗出版室長 杜多 道雄

   
 最近、川柳がブームのようです。
 一般に公募されているものには、もう「老舗」となったサラリーマン川柳のほかに、シルバー川柳、女子会川柳やOL川柳、オタク川柳などというものもあるようです。
 もともと川柳は江戸時代の前句師・柄井川柳(からいせんりゅう)が選んだ句の中から、呉陵軒(ごりょうけん)可有(あるべし)が選出して『誹風柳多留』(はいふうやなぎだる)を刊行し盛んになったことから、「川柳」という名前で呼ばれるようになりました。
 最初は、「うがち・おかしみ・かるみ」という三要素を主な特徴としていましたが、現在は、自虐ネタを含めて「爆笑」に重点がおかれているように思えます。
たとえば「そっと起きそっと出かけてそっと寝る」「『お父さん』やさしく呼んでゴミわたす」「いらぬ事医者に尋ねて血を採られ」「子も子だが親も親なら国も国」などです。
 一読、わからないものはありません。
 それはそれでよいのですが、多くは詠み人知らずで、その場かぎりの文芸というのが淋しいところです。個人的には「深み」というものもあってよいのではと思ってしまいます。
 少ないけれど川柳の作家にも個人の川柳集を出している人もいます。
 短歌の作者は歌人、俳句の作者は俳人ですが、川柳はどう呼んでいいのかわかりませんので、とりあえず川柳作家と呼ぶことにします。
 なかはられいこさんという作家がそうですが、爆笑川柳とはまた別の不思議な味わいがあります。
 「しんけんににげるときっとつかまるよ」「はんぶんとはんぶんはひとつにはなれぬ」。
 いかがでしょうか。川柳は、笑いだけではなく哲学的な問題も扱えるのです。

仏教の散歩道

地獄の心、菩薩の心

 『地蔵菩薩本願経(じぞうぼさつほんがんきょう)』にこんな話があります。
 仏道修行に励んでいた女子がいました。彼女の母が死んで、その母は地獄に堕ちました。そこで彼女は母を救うために、あわてて地獄に行きます。
 だが、地獄の門番は、彼女を中に入れてくれません。
 「あなたは修行をして、きれいになりすぎているから、地獄の中には入れない」
 と言うのです。「でも、母が心配です」と彼女が言うと、門番は、
 「大丈夫だよ。あなたの修行の功徳によって、お母さんはもうここにはいないから」
 と言ってくれました。
 この話はわれわれに、天台教学で言う、
 │「性具説(しょうぐせつ)」あるいは「性悪説(しょうあくせつ)」│
 を教えてくれます。わたしたちは、仏といった存在は完全無缺(むけつ)であって、いかなる欠点もなく、ましてや悪なんてない、善そのものだと思っています。
 でも、かりに仏がそうだとすれば、仏は地獄に入れません。地獄に入れないということは、地獄の住人を救えないのです。
 そして、よく考えてください。地獄とは、死んだあとで行く世界でしょうか? なるほど、地獄も極楽も、死後の世界であることにまちがいはありません。 
 けれども、わたしたちが生きているこの現代日本が地獄でないとはいえませんね。大企業の繁栄の裏で、苦しみに苦しんでいる大勢の貧しい人々がいます。
 彼らは地獄の苦しみを味わっているのです。仏が地獄の世界からシャット・アウトされれば、仏は現代日本人を救えないことになります。
 それでは困ります。
 そこで、仏の中にも悪があるという考え方が出てきます。それが性悪説・性具説なんです。
 すなわち、仏の中に、地獄・餓鬼・畜生の心が具わっているのです。だからこそ、仏は地獄や餓鬼を救えるのです。
 でも、地獄や餓鬼の心が具わっていますが、仏はご自分のためにそれを使われることはありません。ただ具えておられるだけなんです。
 そして私たち人間も、地獄や餓鬼・畜生の心を具えています。だから、われわれは怒りや貪欲や愚かさを発揮するわけです。
 けれども、反対に、わたしたちの人間のうちにも、仏の心があり、菩薩(ぼさつ)の慈悲の心が具わっています。だから、どんな人も、ある瞬間においては、やさしい慈悲の心を発揮できるのです。
 問題は、そのやさしさが長く続かないことです。すぐにかっとなって怒り、欲望だらけになってしまいます。
 したがってわたしたちは、地獄の心をできるだけ短くし、菩薩の慈悲の心をできるだけ長続きさせるようにすべきです。
 それが凡夫の生き方だと思います。

カット・酒谷 加奈

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