天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第122号

「南三陸まなびの里・いりやど」が完成
東北復興拠点の宿泊研修施設 大正大学が中心となって

 大正大学(杉谷義純理事長)では、このほど宮城県南三陸町入谷に宿泊研修施設「南三陸まなびの里・いりやど」(運営・一般社団法人南三陸研修センター)を建設した。同大は、いりやどを、「南三陸エリアキャンパス」と位置付け、ボランティア活動などで復興を支えるのはもちろん、人と自然との関係を有機的に学ぶプログラムも計画している。

 大正大学では震災後、TSR(大正大学の社会的責任)の理念に基づき、宮城県南三陸町における現地ボランティアをはじめとした支援活動を展開、継続的に復興支援を行っている。
 「いりやど」は、東日本大震災後に南三陸町有志によって設立された東北再生「私大ネット36(さんりく)」の活動拠点として、各大学の特色を活かしたボランティア活動や教育プログラムを展開していく。この計画には大学関係ばかりではなく、天台宗も三百万円を寄贈、また各教団・宗派も支援を行うなど、宗教界からも協力の輪が広がっている。
 施設の運営スタッフは、東日本大震災の被災者があたる。「いりやど」とは、「入谷」と「宿」、さらに「IRIYA DO!!(やります、入谷!)」という復興に向けた決意が込められている。 
 多田孝文同センター理事長は「いりやどは、学生、教職員が集い、人々との交流を通じて、自然の営みと復興に向けての人間の力強い歩みを学ぶ活動の場となる」と述べている。三月に行われた竣工式典では解剖学者で名誉館長となった養老孟司さんの特別記念講演も行われた。
 南三陸町は恵まれた自然環境が残ることから、京都大学で始められた森・里・海の環境連環学の協力を得て、人が関わる山と海の連環を有機的に学ぶ「森里海連環学」や、里山づくりを学習するプログラムなども計画されている。
 杉谷理事長は「キャンパスの中だけでは人間教育はできない。地元の復興と一体となる所に、大正大学の建学の精神である大乗仏教精神に基づいた智慧と慈悲の実践がある。被災者の方々を支援しつつ、私どもも恩恵を受けることになる」と語っている。
 施設は、加盟校の学生の他、個人やビジネス客も宿泊できる。
 また震災復興学習や地域産業振興支援など、初めて被災地を訪れる利用者向けのプログラムも、今後、実施される予定である。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

「全員、整列」
「案内人殿に向かって、かしらー、右」

高倉健インタヴューズ

 二百本以上の映画に出演している高倉健さんに、十八年にわたってインタヴューを続けた野地(のじ)秩嘉(つねよし)さんの『高倉健インタヴューズ』の中で、高倉さんが「忘れられないセリフ」として挙げているのが「八甲田山」でのセリフです。
 高倉さんといえば任侠映画での「死んでもらいます」が有名ですが、こんな地味なセリフが気に入っているのには訳があります。 「八甲田山」は、明治三十五年に弘前三十一連隊と青森五連隊が「一月と二月の八甲田山は一度踏み込んだら生きては帰れない。白い地獄」といわれた猛吹雪の中で軍事演習を強行、多くの犠牲者を出した事件を映画化したものです。
 史実では、弘前連隊は十一日間の予定で雪中行軍したのですが、演じ方の高倉さん達は、百八十五日間雪の中で撮影を行い、完成まで三年かかりました。
 明治時代の服装や靴で、毎朝四時に起きて、ロケ地まで三時間進軍して、帰りは夜中という過酷な撮影だったといいます。朝起きたら、エキストラたちが何人も脱走していたというエピソードも残されています。
 高倉さんの演じた徳島大尉が率いる弘前連隊は、犬吠峠という難所を越えるために土地の案内人を頼みます。案内人になる農家の嫁を演じたのは秋吉久美子さんでした。
 一寸先も見えないような吹雪の中で、か弱い女性が軍人たちを案内していく。弘前連隊は彼女のお陰で死地を脱します。案内を終えた案内人が「だば、兵隊さん、みんな元気で」と帰ろうとする時に、徳島大尉が「全員、整列!」「気をつけ!」「案内人殿に向かって、かしらー、右」と号令をかけます。
 当時、軍と農家の嫁では話にならないぐらいにその立場の差は激しい。だからこそ、このセリフに合わせて全員が一列になり、農家の嫁に敬礼するシーンの「敬意」と「感謝」が心を打つのです。自然な流れの中で、ごく自然に、ごく控えめに表される「感謝」の言葉こそが、心に残るものだと思います。

鬼手仏心

津波てんでんこ 天台宗法人部長 山田 亮清

  
 東北の三陸地方は、何度も大津波に襲われています。岩手県大槌(おおつち)町で、三度にわたる大津波に襲われながら、奇跡的に生き延びた老夫婦の記事を読みました。
 小国辰雄さん、定子さん夫婦です。二人とも八十歳を超えています。
 最初の大津波は、昭和八年の昭和三陸地震でした。まだ幼かった辰雄さんは、母親に手を引かれて高台に逃れ、定子さんは「波が引いた朝に、田んぼでカレイが跳ねていた」記憶を語っています。
 二度目は、昭和三十五年のチリ地震による大津波。結婚間もなかった二人は、自宅建築用に用意していた木材を全て失ったといいます。
 その時に津波の恐怖を肌で知った二人には、少しでも大きな地震があれば、夜中でも避難所へ逃げることが習慣づけられていきました。
 それが、今回の東日本大震災で活きたのです。大地震のあと辰雄さんは定子さんを連れて高台へ逃げて助かりました。
 その時「二階にいれば大丈夫」と残った人もいたのですが、後から見れば、海岸から四百先にあった自宅周辺は、跡形もなくなっていました。
 この地方には「津波てんでんこ」といって、津波が来れば、てんでんばらばらに逃げろという言い伝えがあります。そして、辰雄さんは膝の悪い定子さんに「靴を履け!」と促して、引っ張るようにして高台へ逃げたのでした。
 人間は経験から学ばなくてはいけません。災害からの生還、あるいは、平時でも、物事を成就する為には、「決めたことは愚直なまでに守り抜く」という姿勢が必要なのでしょう。小国さん夫婦は、それを実践したのでした。

仏教の散歩道

他力の信仰

他力の信心を確立した念仏者に、妙好人(みょうこうにん)と呼ばれる人がいます。あまり学問もない人が多いのですが、その信仰は本物です。
 そのうちの一人に、因幡(いなば)の源佐(げんざ)さんがいます。
 彼は菩提寺で説教師さんのお説教を聴いていました。説教師さんは、
 「このなかで、自分は来世は地獄に墜ちると思っている人はいますか? いれば手をあげてごらん」
 と、聴衆に言います。すると源佐さんがすぐに、「はい」と手をあげました。源佐さんただ一人でした。
 次に、説教師さんが、
 「では、自分は極楽浄土へ往けると思っている人は、手をあげてごらん」
 と言います。すると源佐さんがすぐに、「はい」と手をあげます。ほかに手をあげた人はいません。
 「あなたは、いったい、どちらに行くのですか? 地獄ですか? 極楽ですか?」
 そのような説教師さんの問いに、源佐さんはこう答えました。
 「地獄に墜ちるのはわたしの役目。それを救うのが弥陀(みだ)の役目じゃ」

 鈴木大拙(一八七〇|一九六六)といえば禅の人ですが、その彼に『妙好人』と題する著書があります。その中で、次のような妙好人どうしの対談が紹介されていました。
 《 「御浄土にさのみ用事はなけれども、救はせ呉れよの御親なら、お互に参つて上げようぢやないかえ、御同行」
 「御浄土参りの同行なら真平御免。地獄行なら同心しよう」
 「嫌(いや)でも自性なら、出た巣に帰るは当然ぢやが、弥陀が邪魔して行かして呉れぬで困るのよ」 》
 一人は聾唖(ろうあ)者なもので、対談は筆談で行われました。「お浄土に別段用事はないけれども、ひとつ一緒に往きませんか」と一人が誘えば、相手は「お浄土へならお断わりする。地獄へならおともしよう」と答えています。
 ちょっとひねくれた言葉ですが、彼は自分の極楽往生を確信していますから、逆に地獄へならば二人で見学に行くのもおもしろいと言っているのです。
 すると、誘ったほうは、「自分は地獄の人間だから、地獄に帰るのが当然である。阿弥陀仏が邪魔をして、自分を地獄に行かしてくれぬ」と応じています。おもしろい問答です。

 わたしたちは、自分の力でもってしては、とてもお浄土へ往くことはできません。悪いことばかりしている人間だからです。
 そのわたしをお浄土に迎えてくださるのが阿弥陀仏です。わたしたちは阿弥陀仏の力によってお浄土に往けるのです。
 それが他力の信仰なんですね。

カット・酒谷 加奈

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