天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第118号

天台宗全国一斉托鉢を実施

 毎年恒例となっている「天台宗全国一斉托鉢」が昨年十二月一日に行われた。今回で二十七回を数えるが、十二月の最初の日に行われることで、今では「師走を告げる風物詩」としてよく知られている。この日は、全国二十五カ所でも実施されたが、十二月の一斉托鉢期間中には、全国の六十カ所で行われる。寄せられた浄財は、NHKの「歳末たすけあい」や、各地の社会福祉協議会、一隅を照らす運動総本部の「地球救援募金」などを通じて、国内外の恵まれない人々に贈られた。

 故山田恵諦第二百五十三世天台座主猊下が先頭に立って托鉢をされたことから始まったこの「天台宗全国一斉托鉢」は、昭和六十一年から数えて今回は二十七回となる。 災害、貧困あるいは紛争などで苦しむ国内外の人々に手を差し伸べることは「忘己利他」という宗祖伝教大師の精神の実践として、托鉢行脚は毎年行われるようになった。
 一隅を照らす運動総本部では、十二月を「地球救援募金活動強化月間」と定め、同運動の一環として活動を拡大し、宗全体の行事として位置づけて今日に至っている。
 師走のスタートを切った一日、比叡山麓、坂本地区では、半田孝淳天台座主猊下、阿純孝天台宗宗務総長、武覚超延暦寺執行、延暦寺一山住職、天台宗務庁職員ら約百名が参加。
 参加者一行は、宗祖生誕の寺である生源寺で法楽を執り行った後、半田座主猊下を先頭に、般若心経を唱えながら坂本地区を行脚した。
 行く先々では、浄財を手に待ち受ける人も見られ、待ちかねたように半田座主猊下に駆け寄り喜捨。「どうぞ恵まれない方々のために、お使い下さい」との言葉に、半田座主猊下も「震災被災者の方も含め、困っている人々のために使わせていただきます」と感謝の意を表されていた。
 参加者はその後、少人数に分かれ、坂本地区の家々を戸別に訪問したり、JRや私鉄の駅前で街頭募金を行った。
 

両陛下が曼殊院に行幸啓
 
 
 天皇皇后両陛下は、昨年十二月三日に京都五箇室門跡のひとつである曼殊院門跡(藤光賢門主)を訪問され、秋の紅葉を楽しまれた。
 曼殊院門跡に行幸啓されるのは、歴史上初めて。
 両陛下は、藤門主の案内により大書院では黄不動(国宝)、また小書院では古今和歌集(国宝)などをご鑑賞になった。
 後陽成天皇直筆の書「宸翰(しんかん)」の前では、天皇陛下は、しゃがみこんでご覧になり、「なるほど」とうなずかれていた。
 また大書院・小書院の南面に広がる庭園では、紅葉の見事さに「素晴らしいですね」と感嘆の声をもらされた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

夢は砕けて夢と知り
愛は破れて愛と知り
時は流れて時と知り
友は別れて友と知り

阿久悠

 お正月には「明けましておめでとうございます」と挨拶し、新しい年に向けての抱負を述べ、その実現への誓いを新たにするのが普通です。
 しかし、年を重ねれば重ねるほど、夢や希望というものの実現がいかに難しいかを知らされます。無事に年を越せた、それはめでたく、ありがたいことに違いありませんが、人生は「すべてが順風満帆、めでたい、めでたい」というわけにはいきません。
 昔流行った藤原義江の歌のように、毎日が「どんと、どんとどんと、波乗り越ぉえ~て」という状態に晒され続けているという人も多いでしょう。
 阿久悠さんは、昭和を代表する作詞家でした。冒頭の詞は、実際に作曲されて歌われたものではなく「お別れの会」の時に壁に飾られていた言葉だといいます。
 ある程度の人生を過ごしてきた人なら「本当に、そうだな」という感慨を持たれるのではないでしょうか。
 逆説的にいえば無事に年を越せたことの「めでたさ、ありがたさ」が本当に分かるのは「夢は砕けて夢と知り、時は流れて時と知った」時からだともいえるでしょう。
 阿久悠さんは「昭和と共に歌謡曲の時代は一度終わった。今はミュージックはあってもソングはない」と言っています。
 ソングとはその時代を代表する歌のことです。かつては老若男女誰もが知っていて、口ずさめる歌があった。それがないというのです。歌ばかりではありません。 
 古今東西、人間は大切なものを失ったときに、初めてその大切さに気がつくという愚を繰り返して来ました。
 大人の文化が次々と消えていくような気がします。まさに「時は流れて時と知り」です。今年は、その愚かさを戒めつつ一年を過ごしたいと思います。

仏教の散歩道

原因と結果

 夫妻が互いに愛し合っていれば、幸せな家庭ができる。わたしたちは普通、そう考えています。でも、これ、ひょっとして反対ではないでしょうか。幸せな家庭であるからこそ、夫婦は互いに愛し合うことができるのです。そう思いませんか?
 つまり、努力すれば幸福になれるのではなく、幸福だから努力できるのです。原因と結果をあべこべにしてはいけません。
 わたしがなぜこんなことを言うかといえば、浄土宗の開祖の法然上人(一一三三一二一二)の『逆修説法』を読んでいたら、こんな言葉にぶつかったからです。
 《しかれば臨終正念なるが故に、〔阿弥陀仏が〕来迎したもうにはあらず。来迎したもう故に臨終正念なりという義明らかなり》(原漢文)
 〔臨終のときに、わたしたちが正しい思いに住していると、阿弥陀仏が迎えに来てくださるのではなく、阿弥陀仏が迎えに来てくださるからこそ、わたしたちは臨終のときに正しい思いに住していられるのです。このことは明らかなことです〕
 来迎というのは、浄土に往生したいと願う人の臨終に、仏・菩薩が迎えに来てくださるということです。
 普通は、わたしたちは、臨終のとき、心を錯乱させることなく、しっかりと保っていれば、必ず阿弥陀仏が迎えに来てくださると思っています。だが、法然は、そうではないと言います。阿弥陀仏が来迎してくださるからこそ、わたしたちは臨終において心を錯乱させることなく、しっかりと落ち着いていられるというのです。
 わたしはこれを読んで、目から鱗が落ちた思いがしました。
 まじめに努力する人には、必ず神仏の加護がある。そのように言う人がいます。また、「お母さんは、あなたがいい子でいれば、あなたを好きになってあげる」と、母が子に言います。でも、それはおかしいのです。反対です。わたしたちは神仏の加護をいただいて、だからまじめに努力できるのです。お母さんの愛情があるから、子どもはいい子でいられるのです。
 もしも神仏の加護がないなら、神仏に見放されたら、絶望のあまり、人はとんでもない行動をします。現在の日本に凶悪な事件が多いのは、日本人が神仏に見放されたことを意味しませんか。
 親の愛情に見放された子は、淋しさのあまり、悪友に誘われて非行に走ります。「おまえが良い子であれば、愛してやったのに・・・・・・・」と言う親の言葉は、子どもにとって残酷そのものなのです。
 原因と結果をとり違えてはいけません。わたしたちは神仏に見守られて幸福であったとき、この人生をまじめに、そしてゆったりと生きることができるのです。わたしは法然の言葉から、そのようなことを学びました。

カット・酒谷 加奈

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