天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第15号

開宗千二百年慶讃大法会
檀信徒総授戒に希望者相次ぐ-法悦あふれる会場-

 天台宗開宗千二百年慶讃大法会の中心である総授戒運動「あなたの中の仏に会いに」が、日を追う毎に大きな盛り上がりを見せている。各教区で予定されていた授戒者数を大幅に上回り、中には当初予定の三倍近い希望者が殺到し、急遽会場を増やすケースも。大法会事務局は「各教区の熱い意気込みを感じる。今年ばかりでなく、来年度についても着実に申請を頂き、誠に有り難い」と語る。

 四月に授戒会が行われた兵庫教区第五部では、当初二十九日に二百八十人を二座に分けて正福寺(熊谷亮澄住職)で行う予定であった。ところが、希望者が三百二十人に増えたために、翌三十日にも一座が追加されている。
 また、五月二十三日に授戒会の行われた山形教区では、当初二百人で一座の予定が、六百二十人と三倍に増え、予定会場の寶光院(工藤秀和住職)だけでは対応出来なかったために、柏山寺(冨樫和廣住職)と二会場に分けて修された。同教区では、各寺院へ、希望者の自主参加を呼びかける方式をとったが、昭和六十一年に立石寺で授戒会(ご親教)が行われて以来十八年ぶりということもあって、大幅な希望者増に結びついたとも言える。
 工藤住職は「檀家さんの熱い希望もさることながら、信者さんからの参加希望が多く、当日ぎりぎりまで予想がつきにくかった。嬉しい誤算です」と語る。

-家族全員が参加のケースも-

 天台宗が、全国単位で総授戒を呼びかけるのは、今回の開宗千二百年慶讃大法会が初めて。昨年から始められ、六月に茨城教区が先発したが、実質的には昨年度は秋に集中し、三千三百人の戒弟が誕生した。今年度は、当初予定七千人に対して、八千三百人を越えている(五月二十日現在)。大法会の趣旨PRの徹底に加えて、各教区宗務所長を中心とした熱意の結果が、希望者の増加につながっている。
 今回の大きな特徴として、これまで授戒といえば、個人で受ける傾向が強かったが、各地で夫婦や家族全員を単位とした授戒を申し込むケースが多いことがあげられる。また他宗の檀家であっても、天台宗寺院の信者である場合、躊躇なく授戒を希望するという。
 授戒を受けた人々の中には、感極まって泣き出す人もあり「これまでと違う自分であることを確信でき、有り難い」と「わたしの中の仏」に出会った感動を素直に受けとめ、精進を誓う姿がみられる。
 各寺院では、これらの戒弟と日々接することにより、住職と戒弟が信仰を中心としたより深い関係に進むことができるために、授戒会を「仏性感得の場」と位置づけており、戒を授かった人々が中心となって、発心会に進むことも期待される。
 五月二十九日の南総教区では四百七十人(当初予定四百人)、六月十日の信越教区では四百三十三人(当初予定三百人)、同十六日の神奈川教区では七百四十七人(当初予定七百人)と、いずれも大幅な希望者の増加をみている。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

先を争うから小道はますますせまくなる。
人に一歩おくれていけば、それだけ道は広くなる。
こってりした滋味は永続きしない。
一分の淡泊さがあれば、それだけ滋味も永続きする。

『菜根譚入門』 岡本隆三著 徳間書店刊

 執着を断つのは難しいものです。
 一旦、手に入れたものは、カネや物質でも、地位、名誉などの肩書きでも、捨て去ることができないのが、人間です。人間の悩みもここから派生し、ときに犯罪にまでいたります。物欲から発した詐欺、強盗、殺人、そして地位、名誉を護るための偽証、隠蔽工作など、日々のニュースは、ここに発生するといってもいいくらいです。
 そんな大それた事件でなくても、自分自身の利害が絡むと、執着の渦から逃れられなくなってしまうのが現実でしょう。
 誰よりも先に、誰よりも多く、誰よりも良いものを、と互いに競い合っているのが、今の世の中です。いや、今の世ばかりではありません。人類は古代から欲望に振り回されてきました。お釈迦さまは「あらゆる執着を取り除くことが、幸せにつながる」と説かれました。中国では「人に譲る気があれば、何事も楽にやれる」という言葉があります。
 時に、星を見て宇宙を感じたり、午後のお茶にホッとしたりしながら生きてゆく、それもまた素敵な人生だと思います。

鬼手仏心

虐待と虐殺  天台宗出版室長 工 藤 秀和

 
 衝撃だった。米軍によるイラク人捕虜虐待と、イスラム武装勢力に誘拐されたアメリカ人が虐殺されたことである。戦争とは狂気である。狂気の中で、虐殺や虐待が繰り返されてきたことを歴史は教えている。
 第二次世界大戦でイギリス軍の捕虜になった会田雄次京都大学名誉教授が著した「アーロン収容所」を思い出した。
 日本人の捕虜たちは英兵から殴られ、煙草を額で消され、小便を顔にかけられたりする虐待を受けている。洗濯当番の捕虜は、女性兵士から下着を投げつけられて「洗え!」と命じられる。驚いたことに、最後の一枚を投げつけたため、女性兵士は全裸で捕虜の前に立っている。「彼女たちからすれば、植民地人や有色人種はあきらかに『人間』ではないのである。それは家畜に等しい」と会田氏は述べている。なるほど、牛や馬の前で恥じらう人はなかろう。
 民間人を誘拐して、虐殺するという行為については、言うべき言葉もない。地獄絵図のような様相である。両方に共通するのは、相手を人間ではないと思っていることだろう。だからどのような酷いこともできるのである。その差別意識が、虐待と虐殺の根底にあるように思う。
 私たちは、戦争と差別に反対だ。それは、その二つがある限り、人は決して幸せになれないからである。華厳経には「様々な無量の願いはただ一つの願いであり、しかも一切の願いに通じる」とある。この二つが無くなることが、私たちの願いだ。

仏教の散歩道

自分を大事に……

 海外旅行をする日本人は、買い物が大好きです。その一つの理由は、値切る楽しみがあるからでしょう。インドの土産物屋では、ちょっと値切れば、半値になることもあります。
 だいぶ昔の話ですが、インドでこんなことがありました。
 土産物屋で買い物を終えた人が、次々にバスに帰ってきます。一人の人が帰ってきて、「こんな物を買ってきましたよ」と、自分の購入した商品(何であったか忘れましたが、テーブルクロスにしておきます)を隣の人に見せました。
 「いくらで買ったんですか?」
 隣の人が尋ねました。じつは、彼も同じ商品を買っていたのです。そしてその人は、自分のほうがうまく値切ったつもりでいます。それで値段を聞いて、内心でにんまりしたかった……と、わたしは想像していました。
 ところが、あとから買ってきた人の値段のほうが安かったんです。これも正確な値段は忘れましたが、自分は七千円で買ったのに、相手は五千円だったとしておきます。
 そうすると彼は、急いでバスを降りて土産物屋に駆け込みました。そして店の人に、
 「二千円を返してくれ!」
 と要求しました。五千円の品物を自分に七千円で売った。だから、自分は二千円損した、というわけです。わたしも意地悪ですね、じつはその人の後をつけて行ったのです。
 インド人はびっくりしました。
 「あなたは納得して買ったのではないか。わたしが他の人にいくらで売ろうが、それはあなたに関係のないことだ」
 インドの商人はそう主張します。もちろん、これはインドの商人の言う通りです。日本人の主張は通りません。だが、その人は、そのあとも長いあいだ不愉快な顔をしていました。
 そのとき、わたしが思ったことは、お釈迦さまが教えられた、
   -自灯明・法灯明-
 といった言葉です“法”は仏法です。仏教の教えをわれわれは大事にせねばならないのですが、その前に自分自身を大事にせよとお釈迦さまは言っておられます。
 わたしたち日本人は、あまりにも他人のことを気にしすぎます。自分が買った同じ商品を、他人がいくらで買おうが、わたしには関係のないことです。自分がその品物を欲しいと思い、その値段でいいと思ったら買えばいいのです。高いと思えば買わない。それだけの話です。それがお釈迦さまが教えられた「自灯明」であり、自分を大事にすることだと思います。
 ということは、「自灯明」は別の言葉でいえば「主体性」なんです。わたしたち日本人は、もっと主体性を持ちましょうよ。それが仏教の教えではないでしょうか。

カット・伊藤 梓

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